2012年8月17日金曜日

土田麦僊といっても知らんひとも多かろうが   ・・・褌子

    福田平八郎の「雨」は山種美術館所蔵でしたか。どこでみたか忘れていたが印象深い作品だ。山種は日本画の名品を多数所蔵するが春夏秋冬で所蔵作品の展示をかえる。わたしが山種美術館はじめ東京国立近代美術館などにたまに足を運ぶのは土田麦僊(つちだばくせん)の「大原女」や「舞妓林泉」(下の絵)などをみたいからだ。「黄蜀葵 (とろろあおい)」には島根の足立美術館でであった。
  土田麦僊の生家は佐渡島の新穂村大字井内でわたしの実家のすぐ近所だから麦僊には特別な思いがある。
  麦僊は明治20年生まれで本名を土田金二といった。わたしが小学生くらいのころ、明治27年生まれの親父が「土田さんとこの金二さんが京都でえらい絵描きになったらしい」といっていたのをおぼえている。親父がそんなことをつぶやいていたとっくのむかしの昭和11年に麦僊は亡くなっていたのだが。
  わたしは新穂中学時代は美術部だったが、美術の先生が村出身の麦僊の話しをしてくれた記憶がない。とうじ、放浪の画家山下清(母親が佐渡出身)が有名になっていて、中学時代のわたしは麦僊と山下清をごっちゃにしていたから今から思うと笑い話だ。
  じつはわが家に麦僊幼年期の絵があった。半紙に牛若丸と弁慶が京の五条の橋の上でたたかっている墨絵で、絵がうまいと評判だった近所の金二少年からまだ尋常小学校はいりたてくらいの親父がもらってきたのだそうだ。いちど親父からみせてもらったことがあるが、この墨絵も親父が村の誰かにあげてしまった。10年くらい前に、帰郷したおり佐渡博物館にいったら麦僊の素描などがたくさん展示してあり、すみっこに幼年期作の弁慶牛若丸の絵があったから、これがひょっとするとうちにあったのかもしれんなあとしげしげと見入ったものだ。
  私が佐渡の高校生のとき、美術の伊藤先生が「新穂村から土田麦僊という京都の舞妓さんを描いたら日本一といわれた画家がでている。弟も土田杏村といって哲学者になっている」と話してくれたことがある。昭和34年に佐渡博物館で麦僊の作品を東京や京都の美術館から借りてきて大規模な麦僊展をやったところ島内外から一万六千人もの入館者でにぎわい、佐渡の島人もはじめて佐渡島出身の日本画の大家がいたことを知ることになった。
  明治以降に佐渡の生んだ人物といえば北一輝と土田麦僊が双璧だろうが、麦僊は日本が中国侵略戦争へと転がり落ちていく契機となった二・二六事件がおきた昭和11年に49才で亡くなり、四つ年上の北一輝は翌昭和12年に刑死している。二・二六事件で国賊あつかいされたせいもあって戦後ながいこと北一輝のことを佐渡のひとは口にしたがらなかったし、土田麦僊もごく少数の知る人ぞ知る存在だったようだ。麦僊、杏村兄弟の母校の新穂小学校校庭に「土田麦僊土田杏村記念碑」ができるのが昭和40年である。  
  長い戦争がやっとすんでも親たちは子供たちに食わせるのに精一杯で、そんなことに関心をもつ余裕などまったくなかったというのが本当のところだったのだろう。
  

0 件のコメント:

コメントを投稿