2012年11月5日月曜日

日野資朝・・・猫跨ぎ

日野資朝。佐渡旅行で話題になった。あの後、当欄に投稿していたので再掲してみる。印象深い人物だった。2005年のこと。やれやれ。

日野資朝(1290~1332)という鎌倉末期の公家が佐渡に流され、最後に刑死した事跡が妙宣寺の掲示に記されておりましたな。後醍醐天皇をかつぎ倒幕運動の謀議をこらしたという罪状。才学に秀でたなかなかの人物だったらしい。ところで徒然草に彼の変なエピソードが記されている。
第152段:ある内大臣が、西大寺のよぼよぼの長老を見て、「何とも尊い様子だなあ」と感に入っている。資朝は「あれはただ歳をとっているだけだ」といい放ち、後日やせ衰えた老犬をつれてきて「なんと尊くみえることよ」と、かの内大臣殿のもとへ届けさせたという。
第153段:京極為兼が逮捕されて庁舎へ連行されるのを見て、資朝は「羨ましい。この世の思い出として、あのようになりたいものだ」といった。為兼は歌人で、これは公家同士の係争に負けて土佐に流される時の事。後年の本人の佐渡配流を予期していたとでもいうのか、変な話だ。
第154段:資朝が東寺の門で雨宿りをしていた。そこに集まっていた大勢の不具者たちが、手も足もねじ曲がり反り返って異常な姿であるのを見て、「類のない変わり者だ。愛賞するだけのことはある」とじっと見守っていたが、たちまち興が失せ、不快になった。邸に帰って、集めていた植木を前に、普通と違って曲がりくねっているのを賞玩していたのは、あの不具者を面白がるのと同じだったと興ざめになり、みな捨ててしまったという。

吉田兼好は資朝と同時代の人であり、資朝は端倪すべからざる人との評判だったのではないか。またこの挿話から資朝のきまりに捕らわれない近代人の目線が感じられると思うが如何か。
資朝に関してもう一つ。今回の本間能舞台の「俊寛」はなかなか感銘深かったが、佐渡の真野町を舞台にした彼にまつわる能の曲目があるという。「壇風」(世阿弥作)というのがそれ。佐渡に配流の資朝を誅せよとの鎌倉の下知。梅若(資朝の子)は今一度資朝に対面したいと佐渡に渡るが、父の前に名乗り出るより早く資朝は誅せられてしまう。その夜、本間三郎の館に逗留の梅若は本間を討ち、船着場へ逃げるが、追手が迫る。そこへ熊野権現が海上に勧請され、舟はたちまち若狭の浦へ。無事、都へ向かうという話。太平記の話を翻案したもの。もっとも、この演目を本間家の能舞台で演ずるのは差し障りがあるかな。
日野資朝は当時の人々にとって忘れがたい不思議な印象を与えた人物だったのだろう。話が妙に現実味を帯びて来るのも佐渡の空気を吸ったお陰というしかない。

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