2012年11月5日月曜日

佐渡は中世文化が残っているところらしい・・・・褌子

   佐渡は越佐海峡のせいで、生き物も朱鷺とか何とか佐渡ネズミとか残ったらしい。かくもうす小生も粛慎の末裔か、はたまた順徳院の御落胤のなれの果てか…
  流刑地だったので貴種流離譚も多いところ。怪しげな安寿塚とか厨子王塚とかもある。高校の古文の日野先生は目元涼しい独身教師で、日野資朝卿の末裔だといわれ女学生のあこがれの的だった。十年くらい前に日野先生の自宅そばの大膳神社の能舞台を掃除している美しい白髪の奥さんにであって、確かめたところ「いえ、手前どもは資朝卿の血のつながった子孫ではございません。都からこんな僻島までお下りになった日野資朝卿のお世話をしましたところ、日野姓を名のれと卿に賜った家系でございます」とのことであった。七百年前のはなしを何のてらいもなく話す奥様の気品に圧倒されました。はい。
   日野資朝は醍醐天皇に抜擢され、北条氏討滅の企てに加わったが、発覚、佐渡に配流、殺された。謡曲の阿新丸(くまわかまる)はその子で、毎年、この大膳神社の能舞台で演ぜられる。
   ほろほろ会の佐渡旅行でもみた日野資朝卿の墓は近くの妙宣寺にあるが墓の掃除は日野先生の一家だけに許されているらしい。(むかし、こんなことを書いた記憶がある。年取ると同じ話を何度も・・・)
   佐渡は近世の佐渡金山の圧倒的な影響もあって、遠野のような縄文弥生の匂いが消えているように思う。佐渡は中世文化が色濃く残っているところらしい。
   佐渡に流刑された世阿弥ではなく実は初代金山奉行の大久保長安が奨励したらしいが、全国の能舞台の半分の三十いくつも能舞台が佐渡の山村集落にあって今も演じられている。
  柳田国男も佐渡にきているが佐々木喜善のような人に会えなかったのだろう。ダンノハナ、デンデラノのような薄気味悪いところもあったんだろうな。無数の水子の地蔵がある海岸端の真っ暗なおっかない洞窟に入ったことがあるが…
  子どものころ昔話をいくらでもしてくれるおばあさんが近所にいたし、終戦まもなくのころか琵琶法師がわが家に泊まったこともかすかに記憶している。佐渡八十八カ所をまわる白装束の遍路さんから炒り菓子をもらうのも楽しみだった。
   
  注:粛慎(みしはせ)=中国の古書にみえる中国東北地方の民族。隋・唐の勿吉・靺鞨はその後身というが確かでない。日本書紀には、欽明天皇の時に佐渡に来り、斉明天皇の時に阿倍比羅夫が征したと記す。

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