2012年7月29日日曜日

狩野雲谷齋・・・褌子

   炎天下を徘徊したら眉毛の上からどっと汗がほとばしり出て、くらくらと目眩がして足がもつれる。脳梗塞の前兆だ。徘徊中断で家路を急ぐと胸がきりきりと痛くなった。明らかに心筋梗塞の前兆である。
  大事をとってやむなくエアコンつけて静かにオリンピックを観戦。産業革命の寸劇には感銘。猫跨ぎさんのいうごとくグレートブリテンは成熟した老大国である。銀メダルの三宅宏美の重量挙げの緊張した顔がじつによかった。テレビをみているとすぐ寝てしまう。明らかに認知症の前兆である。
【写真は原発作業服姿と安原家の秘宝狩野雲谷齋(かのう・うんこくさい)の襖絵】
   夕方陽がかげってきてから半ズボンで東京の反原発集会に向かった。国会議事堂の周辺にはてんでにペンライトをにぎった大勢の参加者がつめかけている。日曜日のせいか若者よりも家族連れがめだった。夜八時をすぎて帰り出す。国会議事堂前駅は満員で入れず、霞ヶ関駅への道を警官になんどもきいたが、とても親切に教えてくれた。
  人いきれでくたびれて道端に腰掛けてウチワをあおいで涼んでいると、夫婦連れが警備の警察官にあんたたちも原発に関心もたなくてはだめよ放射能ってこわいのよと話しかけている。夫婦の息子くらいの警察官の当惑した顔が面白かった。
  熱中症対策でたっぷり水を飲んでいたので東京駅で厠所に立ち寄ったが、ちっとも出てこない。明らかに前立腺肥大の前兆だ。いま家にたどり着いて小麦色の冷えた利尿剤を美味しくいただいている。とにかく暑い一日が終わった。

オリンピック開幕・・・猫跨ぎ

  オリンピックが開幕し、時差が8時間か。昼夜逆転だね。国兼さんほど深夜まで試合を見る気もないので、大体は翌日のラジオで結果を知る。ナデシコはスエーデンに引き分けか。しかし強くなったねえ。これを残念という位だから。
  昨日は朝、開会式を見るともなしに見ていた。大したアトラクションだ。テレビの画面には全貌が収まらず、ちょっと何が行われているのかと思うことが多かった。イギリスの歴史をなぞる寸劇の場面。溶鉱炉から鉄が流れ出しそれがリングを形成し、つなぎというか昔の作業衣を着た労働者達がハンマーを振っている。そのリングがするすると上がって五個が連なって五輪を形成する。そこから光りがしたたり落ちる―てな演出。うまいもんだ。これ、産業革命の寸劇。なるほどイギリスがあのころ世界の歴史を牽引していた。ただ後半煙突から排煙に見立てた煙幕がたなびき、明らかに公害のルーツを暗示するなど、ただ自国史を自慢しているのではないことには、成熟した老大国を感じさせる。
  入場行進が始まった。二百四カ国らしい。すごいね。そんなに国家があるのか。旗手と選手計4名とかいう国が多い。パレスチナも出ていた。時代は変わりつつある。
  入場の順は国名のアルファベット順。北京大会のときのエピソードを思い出した。いつもKOREAはJAPANの後。これが韓国の一部は気に入らないらしい。待てよ、その昔、COREAと表記していた事例もあった、Cだ、前にしてくれと掛け合ったらしいが、まあ当然却下だった。こういう子供じみたことを真面目に言い張る。サムソンの躍進などをみると、貴方たちももうちょっと余裕をもってもいいんじゃないか。
  しかし南北間格差というか先進国と大半の発展途上国との差がますます広がっている。いつまでこの大団円が続くのかと考える。最後の平和の共同幻想としてのオリンピック。この「平和の祭典」も数万人の警察と軍隊に守られてという。地対空ミサイルも動員されているとか。それがもう一つの現実だ。

2012年7月28日土曜日

ナデシコジャパン・・・国兼

 原発はさておき、先日もナデシコのカナダとの試合を真夜中に見続け、翌日のボランティヤの草取りの仕事を忘れそうだった。これから当分深夜労働が続きそうだ。
 翌日の「天声人語」によると、4年前の北京オリンピックで女子ソフトボールでの上野投手の好投にスポーツ新聞は一面にデカデカト書きたて、その小さな片隅にナデシコジャパンの云々という記事があったらしい。4年後の今日、ナデシコがカナダに勝ちスポーツ面はナデシコを一面にデカデカと書きたてられている。そして、その記事の片隅に女子ソフトボールの世界選手権で日本女子ソフトボールが二十数年ぶりに優勝したという記事が載ったらしい。そんな世界大会も知らず、そこに日本女子チームが出ていたことも、優勝したことも知らなかった。宇津木監督がソフトボールも忘れないでと、言っていたらしいが・・・。4年前にあれだけ書きたてていた新聞、ジャーナリズムが何も書かない。オリンピック種目以外は歯牙にもかけない、ということなのだろう。栄枯盛衰というか、、NHKの平清盛を観ているようだ。

 この極端な物忘れというか、極端な変節というか、極端な身びいきというか、これも我々日本人の際立った特性なのかもしれない。
それはさておき、やはり世界の祭典は楽しみたいと思う。かって、戦争を中断してこの祭典に参加したという古代ギリシャの知恵に少しでも現代の我々は近づきたいものである。

2012年7月27日金曜日

原発の議論に戻したい・・・褌子

  シモネッタ・コマリンスカヤなんて「カラマーゾフの兄弟」に登場する薄倖の娼婦の話になってしまった。原発の激論から深遠なロシア文学に迷い込んでしまった。申し訳ない。 
  By the way いちおう資産家らしく怪しげな珍品趣味の安原さんだが、意外にも彼は若い頃は電気工事士の資格をもっていて原発労働者だった。彼はいまも当時の白い防護服をもっているので着用した小生の写真をそのうち本欄で紹介しよう。私に昨年北京にいったら安い線量計をたくさん買ってきてくれと頼んだのも実は安原さんなのだ。原発がどんなに危険なものか骨身にしみていて、末端の労働者の犠牲のうえに保守点検がかろうじて成り立っている原発はありゃあ文句なしにやめるしかないといつも言っている。
  じつは安原さんは肺ガン手術から生還したばかりなんだが、若いとき原発のなかにもぐりこんで仕事をしていたときの放射能被曝とアスベストのせいに違いないと信じている。安原さんにとっては将来のエネルギー政策がどうのこうのという理屈よりも、とにかくおっそろしく危険で東電の社員なんか決して近寄らないところを暴力団までつかって全国からかき集めた下請けの下請けの末端の労務者がガーガー鳴る線量計の電源を切って特攻隊みたいに巨大な蜘蛛の巣みたいな配管の間で蒸し風呂状態で働かされている現状を告発したいのだ。当時の仲間はほとんどガンで死んじゃった。あんなひどいものはないぜが安原さんの言い分だ。俺はもうデモにいく元気はないけど、おまえが代わりにうちのハチミツなめてスズメバチの焼酎づけで精つけて反原発デモに行ってこいというのだ。
  

さすが珍名辞典ねえ・・・褌子

シモネッタ・ダイスキーとか妙な日系ロシア人が静岡方面に多いらしいよ。
せっかく厳粛に人類と原子力の関係を丁々発止と論じているのに、チンタツサセニコイなんて電報打たれては私しゃほんとにスケベチッチ・コマリノフ。

マタ・ライネン・・・猫跨ぎ

そりゃそうだよね。了解済みのだまし合いとは承知していたが、なかなかの御仁らしい。
お返しに、最近入手した世界珍名辞典を紐解いてみよう。

・年に1度しか人と逢おうとしないフィンランド人
 ・・・マタ・ライネン
・日本に来ても朝昼晩決してお米を口にしない小太りのスペイン人
 ・・・サン・ド・パンサ
・小沢新党に政治資金の便宜を図る、謎のロシア人女性
 ・・・ウケトリーナ・コーフキン
・レンタルDVDが趣味のロシア人
 ・・・ミルナーラ・カリルツタヤ


パピヨンルージュマルゴーカルロスゴーン・・・褌子

パピヨンルージュマルゴーカルロスゴーンはいくらなんでもおかしい。おちょっくったふりをし、こちらはおちょくられたふりをしているのだ。とにかくおおげさに感心するととても喜んでくれる。老人は大事にしなければ。こんど行ったらパリの老舗画廊の鑑定書をみせてもらおう。宗達の風神雷神の下絵があるとかないとかマッカーサーの御真筆とかいっていたがすべて怪しい。とにかく何となく怪しい雰囲気がいい。

2012年7月26日木曜日

画格がなあ・・・猫跨ぎ

  ちょっと絵が小さくてよく解らないが、前に品格の話があったが、画格が感じられないな。そして作者名が有名なワインと日産の社長の名がくっついたやつで、完全におちょくられているのじゃないか。大丈夫かい。
  閑話休題。この前、政府の事故報告書が出て、代表が失敗学の畑村洋太郎氏なので、注目していた。原因の大もとが津波なのは論を待たないが地震そのものはどうだったのか。地震の影響は決定的ではなかったというのだ。これ、これからの再開論議で臍になる部分だな。確かにすぐそばの福島第二原発、北にある女川原発、つまり電源が生きていたところは大丈夫だったからだ。

ちょっと休憩・・・褌子

  原発をめぐる暑い議論が続く。
  わたしは29日の日曜日にも脱原発首都圏連合国会大包囲というのに参加する。汗を流して飲むビールがたまらないからだ。

  ひさしぶりに近所の安原さん宅を自家製ハチミツもらいにふらりと訪問した。いぜんにも紹介した「縄文の砥石」とか「サハラの薔薇」とか妙なものを集めている安原さんだが、応接室にある伊万里の自称至宝と自慢のフランス名画をみせてもらった。美術方面には浅学非才の私にはきいたことのないパピヨンルージュマルゴーカルロスゴーンとかいう長い名前の画家だがとにかくフランスではむかしむかし高名な画家だったのだそうだ。そういわれてみるとなかなかいい絵だねえ。

2012年7月25日水曜日

私見・・・国兼


 原発論議が再度・・・。昨年の3月11日以前、鳩ポッポが国際会議で日本の炭酸ガス放出を25%削減するとか約束してきた。日本の世論も大いに歓迎したが、その一番の削減の背景は原子力発電の拡大である。このまま地下資源を使っていると、太平洋に住む人々は海に沈み、アメリカの映画にあったような大水害と洪水と旱魃に地球に生きるはあらゆる生物、特に人類が最大の被害をこうむると。
 3月11日以降、急激に世論が変化する。原発悪人説になってしまった。どうしてこうころりと変わるのかと、小人と女子は・・・と孔子様も嘆くことだろう。しかしながら、人類の人口が今日の70億から2050年に90億と、さらに20億増加し、今世紀末には150億と。これだけ増加する人口が(専らインドやアフリカや南米等)、今日の日本のような冷蔵庫やテレビや洗濯機の生活をしようとすると、彼らはその電力を原子力発電以外には依存できないだろうと思う。5年前に東の方のインドを旅したが、大人も子供も夜にはローソクを灯して屋台みたいなところに集まり、ホテルに泊まると突然電気が消え暗闇となる。電力が圧倒的に不足しているのである。1995年に西安に行った時もインドよりは良かったが、街中をタクシーで通ると街路も家々も暗闇である。
  では、日本はといえば、今日の先進国同様に着実に人口減少する(唯一の例外はアメリカで、白人人口は減るがこれからも増加する)。年寄りが増え、早寝早起きで、電力需要は減る方向だろう。地震大国のこの日本で、今の原発依存率25%を20年後にでも30年後でもよい、自然エネルギーに転換する。そのための送電線の問題とか、東電の電力支配力を無にすべきというか、潰すべきではと思う。

想像力の問題だ・・・猫跨ぎ

  道徳的正論は結構だが、何というか、黒白分ける話が多すぎないか。この話に限らんがとにかく旗幟鮮明がいいらしい。直ぐやれ、一刻の猶予もならん。こういう思考回路は一種のカタルシス追求だな。言い過ぎかな。
  小生の立場は前から言っているが、原発は止めるべきだ、それは倫理の問題だから。
しかし直ぐにはそうもいかんだろう。理由をくだくだ言うのは省略。逓減してゼロに持ってゆく。そのグランドデザインを真剣に考えるべきだろう。物事を実効に移すというということはそういうことでないか。廃棄物貯蔵所の話は、地球規模で考えねばならんということ。日本の廃棄物事情だけではない。シベリアの地殻は最も安定していると言うことだ。他にいい手があるなら提案すべきだろう。これらもなべて想像力の問題だ。

2012年7月24日火曜日

これは想像力の問題だという気がする・・・・逸徳

核廃棄物の問題は原発賛成派も反対派もない、というのはまったくその通りだ。だが、今すでにある数万トン(浜岡原発だけで1200トンである)の使用済み燃料の問題があるから、今更止めたってというのはよくわからん。 原発が未来に対して道徳的に問題だということは、もう1gでも増やしてはいけないというということだと思うから。 さらにロシアの北極海の処理場の問題は、とても面白いが、日本から北極海までもっていけばという発想はいただけない。現在の地球と国際社会の条件を楽観的に将来にわたって外挿してはいないか。 桁は10万年の長さの話なのである。現在の地層処分は10万年の桁を目標にしているのだから。だが、そこまで人間が存在するのか、そもそも日本やロシアという国家があるのか。モンゴルに持ち込もうとして断られたニュースがあったが、無様というより品がないなあ。
進化論的にいえば、放射能の問題は、人種などを超えて「人間」という生物種の遺伝情報をかく乱していくのではないか。 どうなるのだろう。おっかない。

2012年7月23日月曜日

廃棄物のもんだい・・・猫跨ぎ

  使用済み燃料の問題は、反対派も推進派もない。日本共通の課題だ。こちとら反対派だ、そんな問題は誰か考えてくれとは言えない。3.11の事故の直後、まだ行方定まらぬときに大前研一が指摘していたが、福島第一原発には数千本のそれが寝かせてある、全国の原発はみなそう。ずっとその問題は重要課題だった。だから今止めたって問題は何ら解決しない。彼はロシアと真剣に交渉しろと提案していた。
最近の話だが、ロシアの北極海側にむかしの核実験の有象無象の核廃棄物集積所があって、何とかせねばの状態が続いていて、プーチンは本格的な貯蔵施設建設を決断したという。それに日本は乗るべきという話がある。もう交渉は始まっているのかもしれないが。

よくわからん・・・逸徳

原発の話。 どうもよくわからん。 誰かがウソをついているのか。 目をつぶっているのか。 ・・・・ 原発機器の耐震性の問題も、まあ何とかクリアできるとしよう。
もれた放射性物質も、低線量については学者の意見がわかれているらしく、これもまあ目をつぶろう。というよりは、現在の安全論争は一種の神学論争になってしまっている側面がある。 「神はいる!」と叫ぶ宗教者と「原発は絶対安全だ」と断言する電力会社のえらいひとと。・・・・・なんとまあよくにていることか。だがである。原発肯定派もどうしても、にげられない問題がある。 高レベル放射性廃棄物の問題である。 今や、使用済み燃料の格納プールはどこもいっぱいになりはじめ、六ヶ所村もまもなくいっぱいになる。 再処理工場は依然として動かない。 そこで一応地層処分という方針であるが、こいつが問題である。この地震列島において、10万年の桁で変化しない安全な地層が存在するのか、 おそらくないだろう。 地層処分推進派の学者の論文をみてみた。 要するにさまざまな仮定条件の組み合わせで、安全といっているにすぎない。こういうのが「牽強付会の説」というのだろう。そもそも、10万年の桁で確定的な予想が可能なほど、人類の科学は進歩していないのだし、それは自明のことだろう。そういう予想をするというのは傲慢である。 だから、どう考えても日本では「安全な地層処分」など不可能なのだ。 原発を「トイレのないマンション」といった言葉があったなあ。この「トイレがない」ということが、ますます明確になってきた。この問題は逃げようもないし、否定のしようがないだろう。 さあどうする、原発推進派の諸君。・・・ うーん はやくしてくれえ、もうもれそう。

環境倫理学という分野がある。この世界でしばしば指摘されているのが、「未来世代への責任」ということばである。 高レベル廃棄物という負債を未来世代に残していくことは、まさに未来への犯罪だろう。 要するに、原発は道徳的に許されないのである。 だから原発が動かないと、経済がなりたたないなんて、強盗やってもうけた金でどんちゃんさわぎしているのと変わらんようにみえる。

こういう意見もある・・・猫跨ぎ

  野田の再稼働容認でデモ参加者が爆発的に増えたという。しかし容認派は仕方がないと思っている。国論を二つに分けた問題だ。役所に再稼働容認をねじ込んだのは中小企業の経営者が多かったという。大企業は自家発電でも何でも手はある、我々は即倒産だというわけ。複雑に相互関係が絡み合っている。巨船は直ぐには舵を切れない。
  エネルギー問題、安全保障の観点は掻き消される。こういう話を切り出すと、原子力ムラの陰謀をという話になる。将来、原発比率を徐々に下げていくというグランドデザインがこの国ではなかなか俎上に上らない。公聴会みたいなものも反対派が押しかけて大騒ぎになる。電力会社社員が意見陳述をすれば、重大陰謀事件のようにいきり立つ。彼等に話をさせるのは何故いけないか。それをバカ新聞が煽る。即ヤメロの合唱だ。全ては情緒的に流れる。
政治屋はこれを政局に絡める。鳩山がちょろちょろうろつき回るのも醜悪だ。近々の選挙で如何に有利に立ち回るか。みなそれを考えている。

2012年7月21日土曜日

原発反対の集会に参加する・・・褌子

   7月16日の炎天下の「さよなら原発10万人集会」につづいて毎週金曜日夕方6時から原発再稼働反対の官邸前抗議行動に参加した。【写真:夜ですが遠くに国会議事堂がみえる】
   20日の夕方、地下鉄丸の内線国会議事堂前駅で降りると改札口に警察官が大勢並んでいてに誘導された出口しか出られない。階段をのぼると地上は「再稼働反対」の唱和をとなえる人々の長い列ができていた。「官邸前は大勢で危険です。国会議事堂前にまわってください」という警察官のメガホンで30分も歩いたり停まったりして国会議事堂の正面にたどり着く。ここで白い風船などをもらって8時まで人の波にもまれながら「サイカドウハンタイ」を叫ぶ大勢の人々のなかに立っていた。雨もやんで涼しいので助かる。(七月一六日の代々木公園は暑かったなあ!)
   参加者の半分くらいは青年男女かもしれない。みなスマートフォンをにぎっているからこの層がツィッターやフェースブックでつぎつぎとよびかけあってうなぎ登りに参加者がふえていったのだろう。会社帰りの背広姿のサラリーマンもかなりいてさかんに携帯で写真をとっている。あとは子どもといっしょにきた家庭の主婦とか私のようなおじさん、外国人も結構きているようだ。プラカードはすくなく、四、五人にひとりくらいが、ウチワや紙などに意思表示をして頭の上にかかげている。「フクシマの被災者を見捨てるのか」とか「放射能があっては生きていけません」とか「原発でもうけているのは誰だ!」とか書いた紙をシャツにはっている参加者もいる。
  警察に届けるデモ行進でなく、自然発生的な「抗議行動」とのことだが明らかに過剰警備。歩道がびっしりと人で埋まっているのに、議事堂前の大通りは警備とマスコミの車だけでがらがら。
  国会周辺に毎週毎週これだけ人が集まるのは、60年安保以来というから実に五〇年ぶりの光景ということになる。三月頃から集まり始めて、七月はじめの野田首相の「大飯原発再稼働」で爆発的に参加者がふえた。
  政府は「次つぎと原発が再稼働してしまえば、そのうちあきらめて参加者は減っていくだろう」とたかをくくっているかもしれない。が、衆院選を前に民主党から脱党者があとをたたない野田首相はまさに内憂外患、この巨大な抗議行動には心底参っているはずだ。
  八時をすぎたら自然と静かになって拍手が起きた。だんだん人の波が整然とひいていく。
  七月二九日には国会議事堂を包囲するキャンドル抗議行動をよびかけるチラシをくばっていた。若い女性たちが帰り道の案内をしている。昔のデモのように過激派の浮ついた怒号も警官隊との小競り合いもない。
  長年、デモなどやったことがない青年たちが夜にこんなに集まるのだから、日本がいい方向に変わるきっかけになるかもしれないなあとと思いながら帰った。

2012年7月17日火曜日

函館通信184・・・型絵・・・仁兵衛

 早速の句評有難う御座います。
 型絵とは型絵染を略した表現であまりお目に掛る事がないでしょう。函館美術館で開催していた「型絵染人間国宝・芹沢銈介展」の鑑賞から句は出来上がりました。布への染色方法の特殊技法と思います。和服?浴衣に染め抜かれた鯛の赤さが印象的でした。芹沢が沖縄地方にあった染手法を発展させていったようです。(詳しくはネットで検索して下さい)

2012年7月15日日曜日

7月仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

・ゼムクリップ挟み損ねて土用波
何かの情景が寓意されているのだろうが、~損ねてと繋がるから、土用波の或る形容であるらしい。ちょっと解釈できない。切れを入れてくれると取り合わせになるのだが。
・蟻の道所どころに旅籠かな
蟻が盛んに動き回っているのを見ると時が経つのを忘れる。蟻の住み処も中継地があるのか、大きく俯瞰すればそうなのかもしれないが、そこまで観察していないなあ。
・刃を当てし西瓜パリッと風を切る
西瓜も切ったのを買ってくるようになったなあ。特に一人住まいは。
・じゃが芋の花うねうねと海へ降る
北海道の広大なジャガイモ畑の畝が延々と続き、はるかに海へ落ちる。文句なしの風景。
・毛が足に足が毛になり大毛虫
どうも以前より、作者は気持の悪い虫類に惹かれるように思うのは思い過ごしかな。
・遠雷やパズル空欄イロハニホ
このように、やで一旦切ると、遠雷のなか、パズルの空欄をしきりに潰している景が浮かぶ。
・縄文の斧の柄朽ちて夏の雲
時空が繋がっている様が表現されている。
・夏の霧カチンと鍬に当りけり
霧がカチンとはかなり心象的。北海道の霧は冷たいんだ。
・鯉泳ぐ型絵の中の夏野かな
型絵とは?何かに描かれた絵のようなものか。例えば絵皿とか。
・挙げた手の星と繋がる踊かな
盆踊りの風景であろうか。手に星が触れそうというのもなつかしい。今日、夏祭りの寄付集金が来た。

仁句鑑賞・・・  褌子

金曜日夕方は霞ヶ関から官邸・国会議事堂まで原発再稼働ノーの人並みでぎっしりだった。
明日、さよなら原発10万人集会にも代々木公園へ出かける。暑いとぐったりしていやだなあ。しかしあとのビールは格別か。
牡鹿半島でワカメ収穫を朝6時から二時間半やってふらふらになってから食った朝飯の卵のぶっかけご飯の旨さはたとえようもないくらいだった。
仁ちゃん句の鑑賞。
●ゼムクリップ挟み損ねて土用波
  土用波とゼムクリップとは面白い取り合わせだ
●蟻の道所どころに旅籠かな
  イソップ寓話どおり蟻はじつにせっせと働いているね。ご本人からすれば目がくらむばかりのとんでもない木の高いところにもせっせと登っている。が、蟻の二割くらいはじつは働いているふりをしているんだそうだから面白い。そういうぐうたら蟻は所々の旅籠にしけこんで女郎相手に飲んだり喰ったり博打をやっている。ヒトもいろいろ。アリもなんでもアリ。国兼さん大好きの島倉千代子「人生いろいろ」はいいなあ。やっぱり酒は日本酒うたは演歌。酢は鎌倉だ。
●刃を当てし西瓜パリッと風を切る
   男らしい。潔いね。いい音だ。切れる包丁でスイカの応力をバリッと解放してやる快感。一陣の風とともに甘いにおいが立ち上る。準特選
●じゃが芋の花うねうねと海へ降る
   白い花が函館でもいま盛りか。特選としたいが「海へ降る」が語呂がわるいのが難点。
●遠雷やパズル空欄イロハニホ
    いや平和だね
●縄文の斧の柄朽ちて夏の雲
      いい句です。特選。尖石の縄文のヴィーナス思い出す。神長官守谷家史料館の怪しい縄文の雰囲気も
●夏の霧カチンと鍬に当りけり
    カチンと鍬にあたったのは何だろう。
    まさか霧がとは思えないが。
●鯉泳ぐ型絵の中の夏野かな
    のんびりとした夏休みだね
●挙げた手の星と繋がる踊かな
      盆踊りか。平和っていいね。ぼくは断然護憲派なんだ。この星はむろん逸徳星だね。清く美しくまたたいているもの
●毛が足に足が毛になり大毛虫
  一瞬毛ガニかと思った。大毛虫じゃあ喰えねえな
  鶏は喜ぶんだね。ああいうグロテスクな大毛虫。むかしゴマの葉の巨大な青虫を鶏に投げてやったら旨そうに喰っていた。だから卵はおいしいんだ。
   ♬ にわとりクソして尻拭かぬ~♪それでも卵はおいしいな~♪ (童謡鳩ぽっぽ「豆がほしいかソラやるぞ~みんなで仲良く食べにこい」の要領でご夫婦でお歌いください。人生が明るくなります)
   つぎの歌は国兼家でご夫婦で歌ってくださいね。
   作曲古関裕而歌唱岡本敦郎の「♬ 高原列車は行く ♫」の「汽車のまどからハンケチふれば牧場の乙女が花束投げる」の要領で近所にも聞こえる大声でお願いします
   ♪♪汽車の窓からフンドシ振れば~♪牧場の乙女が腰巻き投げる~♬明るい青空 白樺林~♪♪山越え 谷越え はるばると
  ララララ ララ ララララララ  高原列車は ラララララ 行くよ~~~  (また熊さんに、怒られそう(T_T)

2012年7月14日土曜日

函館通信183・・・元気の元・・・仁兵衛

 皆さんお元気そうで何よりです。論戦を張り自己主張を縦横無尽に書き表わす事が元気の元なのでしょう。体調が優れないとなかなかその中へ加われないのがもどかしく感じています。せいぜい俳句を毎月切らすことなく皆様の前へそっと出す事だけでも続けることにします。宜しく。

  ゼムクリップ挟み損ねて土用波
  蟻の道所どころに旅籠かな
  刃を当てし西瓜パリッと風を切る
  じゃが芋の花うねうねと海へ降る
  毛が足に足が毛になり大毛虫
  遠雷やパズル空欄イロハニホ
  縄文の斧の柄朽ちて夏の雲
  夏の霧カチンと鍬に当りけり
  鯉泳ぐ型絵の中の夏野かな
  挙げた手の星と繋がる踊かな
  

2012年7月13日金曜日

店じまいの前に・・・国兼

 星になったり、金子長老のような他界の世界で延岡の合唱の仲間と「千の風に乗って」を唄っている姿は羨ましい世界である。では我はと? 未だ生を知らず、いわんや…なんていう高尚なことも言えず、ふと褌をきりりと引き締めながら思った
 この世には酒とタバコと女を愛でて100まで生きるバカがいる   と

また、品のないことを書いてとと目を剝く御仁もいるかもしれないが・・、ネー熊さん。
 10年ほど前に「女性の品格」という本がベストセラーになり、何気なくカミさんにと思い買ってきた。本のタイトルを見ただけで「こんな本読みません」とポイされた。カミさんの心をいたく傷つけたようだ・・・。鎌倉に九品(くほん)寺というお寺がる。この名前の由来は「品」には上品、中品、下品があり、そのおのおのに上生、中生、下生があり、都合9っの品があると。このような文を恥じらいもなく書く人間は下の下なのかもしれぬ。
 「人生いろいろ・・・」、20年ほど前に島倉千代子がうたったこの歌が好きで、CDを買ってきて唄ったものである。男もいろいろ…女だっていろいろ・・・・いい歌だった。

2012年7月12日木曜日

店仕舞い・・・おやおや・・・猫跨ぎ

もう店仕舞いの話かい。
  知り合いが癌で仆れる―、本当にこの話は多い。老年の死因の1/2は癌だと言うから、平均寿命をそろそろ使いはたしつつあることを考えれば、この話はむしろ当然か。一緒に句会をやっていた前の会社の同僚が、ぽっくり逝った。抗癌剤治療で闘病中とはいえ6月に元気に話していたのに。まるで予め敷かれたレールの上を行くように、その通りに舞台から去って行く。何だ、このシナリオは。しかし、ここ半年の彼の句境の深まりは刮目するものがあったなあ。潜在的ではあろうが、死期は判ってくるのかもしれない。
  まあ、要約すれば、人間なるようにしかならない。気張ろうが、それなりに準備しようが、ぐうたらでいようが、去るときが来れば、否も応もない。こちらの選択の余地は意外にない。言い古された言葉ではあるが、今は生かされているというのがだんだん実感となってくる。
 吉本隆明という人が昔から好きで折に触れ読んできたが、先日亡くなった。最後は足腰も弱り、家中を膝行っていたらしいが、来る人には何もかもさらけ出し、老いを一切隠そうとしなかった。年取って妙に気取る老人がいるが、まあ好きずきだが、かえって見苦しい。老いはこんなものだよ、という自然な心が見えていいなと思う。頭は最後まで明晰だった。

とここまで書いてブログを見ると、品格論争に話題が移っている。微妙に話が食い違っているなあ。熊さんは、ブログ相手に対するいわばエチケットのようなことを言っているだけだと思うが(いやあ、びっくり。繊細な一面ありだね)、褌子氏は我が品格を指摘されたが如く大きく構えてしまった。まあ、あまり上品とも思われぬが、決して下品ではない。どころか常日頃リスペクト止まない。しかし、若いねえ、店仕舞いの話なんか10年早いか。

70才のたしなみ・・・褌子

   70才には70才の品格があるのだと、70才になって熊さんに教えられた。うかつにも知らなかった。
  私流に気をつけている品格とはだいたい次の三つである。
①大きなウソはつかないように心がけよう
②ひとの悪口はできるだけ言わないように心がけよう
③人間差別や戦争に反対する側に自分はたっているかと常に自省しよう。
  私は、日本人として一番品格のあるひとは「世界全体が幸せにならない限り、個人の幸福はありえない」といった宮沢賢治だと思っている。
  私から見ると「広く薄く国民の皆様に負担して頂く消費税ほど公平な税金はありません」とか「原発なしには日本経済はたちゆきません」とか「憲法九条を墨守していては日本は世界から取り残されます」などという政治家は品性下劣な人間ということになる。私からみれば。
 毎年3万人以上もリストラや営業不振やいじめで自殺している日本の現状には目をつむって「悠々自適」な生活を屈託なく送っている品の良い紳士も自分の家族さえ安泰に生活できればよしと趣味に没頭している洗練された美しい淑女も、私にはそれほど上品な人間には思えない。
  むろん、私が勝手にそう思っているだけであって決してそのひとたちの悪口は言わないが。心ひそかに思っているだけ(笑)。
  私自身は女房が一生懸命に働いてくれたおかげで全く喰うには困らないが、つねにまわりにたくさんいる喰うにも困る人たちの側に立ちたいと思っているのである。だから同じ世代の生活苦の中国残留孤児もほおってはおけないし、津波ですべてを失った三陸漁民のワカメを毎日売り歩いているし、明日も東京へ原発反対デモにでかけることになる。
  人間がひとりひとり違うように、そのひとが70年も生きて身につけた品格の基準もひとりひとり違うのかも知れない。
  熊さんは熊さんの考える品格を大いに論じてほしい。小生のようにいつも脱線型の人間にはいい薬になるのでありがたい。
  「酒も女もタバコをやめて百まで生きた馬鹿がいた」という都々逸に発してこりゃ面白しれえとふざけあうもよし。おいおい君らちょっといい年こいて下品過ぎではないかいと眉ひそめやんわりブレーキかけるもよし。

品格も必要    九州の熊

親しいなかにも礼儀あり。言う方も言われる方もあまり深刻には考えてはいないとは思うけどちょっと悪ふざけがすぎるのでは?70歳のたしなみも大事だと思います。

よのひとこれを逸徳星といふ・・・褌子

逸徳さん
なにもご無理にご謙遜される必要がないのでは。あなたの精力ならば白寿は十分可能です。「酒・たばこ・女に連なる、この瞬間の生を楽しむ姿勢」を確固として貫いてください。決して変節しない貴殿はわれわれのホープ、アイドルです。
大往生遂げたあかつきには誰かしらんが生き残った有志によって菊川地区公民館に銅像が建てられることでしょう。そして地区の聖地としておばちゃんたちがたむけるお花お線香ワンカップがきれたためしがないのです。
夕闇せまるころ一番星がまたたきだした。世の人これを逸徳星といふ。

2012年7月11日水曜日

あのう、それちょっと違うけど・・・・逸徳

褌子氏のソフトなコメントには毎回感心させられます。あれで奥さんをだましたんだろうなあ。 ところで「世の中に酒も女もたばこもやめて百まで生きたバカがいる。」のどどいつですが、あれ別に長生きしたいといっているわけではなく、いくつまで生きるぞうと力んでもいないのです。どこか解釈をお間違えではないでしょうか。
酒・女・たばこに代表されるいきるよろこびをたなあげしてまで百までの長命を得ても意味ないでしょう、明日死んでもいいからむしろ今日一日が大事で、酒・たばこ・女に連なる、この瞬間の生を楽しむ姿勢が大事で、おいらはそっちでいくということなのです。99まで生きるなんて、とてもとても・・・・。統計的にいえば70すぎたらいつ死んでもおかしくないんです。 だから要は、死をめぐるその人がストンと納得する物語をみつければいいのではないかと思います。 おいらの予定では、死んだら星になることになっております。ハイ。
 

RE:わたしも雑感・・・褌子

    世の中に酒と女とたばこをやめて百まで生きたバカがいる
  おれはこんな馬鹿にはならねえぞ。九十九まで生きてみせるという逸徳さんの確固たる決意をみた。強靱な生命力に脱帽。励まされるねえ。こういう繁殖期を過ぎて万事旺盛なご主人をもった奥様の幸せそうな笑顔を思うといやこちらまで幸せになる。幸福のおすそわけありがとう。
  国兼さんは慈愛深い奥様の御加護で意外や意外いちばん長命を満喫されるのではなかろうか。こんかいの国兼発言はまことに滋養に充ち満ちていて味あい深い。わたしも膝をうって拝読した。上善水乃如しとは国兼さんのような見事なこういう生き方をいうのだ。あの「上善水乃如し」あの越後の酒は旨いねえ。浦霞も旨いけど。八海山もむろん旨い。雪中梅も旨い。越乃寒梅は高いわりにそうでもない。久保田の万寿がいちばんだが高すぎる。佐渡は真野鶴よりも北雪の人気がでてきた。天領杯は評判倒れ。佐渡・越後勢にたいして千葉館山の壽萬亀もがんばっているぞ。佐原の五人娘も捨てがたい。がやっぱり、勝浦の腰古井がいちばん。大原の木戸泉もまあまあ。神崎の老舗酒造家東薫も祈る奮闘。夷隅の岩乃井の酒蔵はいいなあ。あの新酒の薫りがたまらん。富津の甲子正宗むかしはよく飲んだなあ。最近きかんが…
   ごめん酒の味などどうでもいい。「老いる覚悟」を厳粛に論じているのだ。満天の星凍りても生きており 森村誠一なのだ。
   朝五時に起きてここまでだらだら書いたら九州の熊さんの発言に気づいた。
   生命は宇宙の元素を再編成しつつ生きて死に永遠の輪廻のなかの一節にすぎないという熊さんの高遠高邁な生命感にいま感動している。ひらたくいうと彼岸も此岸も地続きということ、万物は流転そういうことなんだね。今朝日を浴びてはるか千葉の西方、延岡に向かって合掌瞑目している。そう。その通りなのだ。朝の散歩で立ち寄る法然山釋蔵院宝積寺の女性住職文聖さんに宇宙はヒッグス粒子に充填されているのだとびっくりさせてやろう。
   夏の寺ヒッグス粒子と伸びをする
   いま私の心境は大げさにゆふと諸兄のありがたい生命観に今朝ふれたばかりだが効果抜群
   遠雷や昨日を拒む今朝があり   てなところか。
   梅雨が明けたら上野「通い路」が楽しみだ。冷や奴少しに塩辛少々。酒は静岡の磯自慢ちびちびと。いいものをほんの少し。酒は飲むものではない。私のように、たしなむものなのだ。諸君安酒のガブ飲みだけはもう慎んでほしい。小蔵ひでをさん予約早めにお願いします。
  


2012年7月10日火曜日

わたしも雑感    九州の熊

きょうの朝日新聞「人生の贈りもの」というコラム欄に金子兜太へのインタビュー記事があった。以下抜粋で。

私流の「他界説」。死ぬということは命を格納している器、自分の外形が死ぬということで、命そのものは永久に死なない。この世で格納しているものがだめになったら次の別のところに行って格納してもらう。・・そこでゆっくりと生活する。野っぱらか山かは知らんけどそこには女房もおやじもおふくろもいるこったろう。・・死ぬということは他界することであって消滅することじゃないと考えています。・・死ぬということに暗い思いがないんです。私の親しくしていた友人で「死んだら樫の木になるんだ」というのがいた。「もう人間はめんどうくさいから木になる。そして命は続く」と。そこには消滅するという暗さがない。自分は特になりたいものはない。別の場所に行ってのんびりしたいという気持ちだね。そこでまた俳句を作っているかもしれない。

人生達観のことばに共感するところ大。若者にこんな言い草は似合わないし、そんな心境になってもらったら困るが、非凡な才能で文学界に偉大な足跡をのこしている長老の言は味わい深い。最近同じような心境になることがあり、わたしも長老の域に近づいたのかなぁ?と複雑な気持ちになった。ねぇ、国兼さん。

いやあまったく同感・・・・逸徳

国兼氏のコメントに膝を叩いて同感した。 とにかく70までは健康に注意していきる。その先はもうけもの、付録だと考えていた。8月で70になる。これからはいつ死んでもおかしくない。こんな話がある。「100万回生きた猫」を描いた佐野洋子さんが、がん宣告を受けた時、医者に「治療にいくらかかる」と聞き「一千万ぐらいかかります」と言われ「やめた!、普通の生活ができるようにしてくれ」と言い、そのままジャガーの代理店に行き、その場でジャガーを買ったってな話があります。運転が下手なので1週間でジャガーはぼこぼこになったそうですが。
もうお読みになったかもしれませんが「大往生したけりゃ医療とかかわるな」仲村仁一著(幻冬舎新書)というベストセラーもあります。面白い。とにかくもう、繁殖年齢は過ぎた(はずだ。試していない)のだから。好きにやりましょう。
  世の中に 酒と女と たばこをやめて 百まで生きたバカがいる。(江戸どどいつ)

2012年7月9日月曜日

雑感・・・・国兼

 その昔、結婚して子供たちがころころと生まれ、60までは何とか生きて、月給袋を運ばなければと思ったものである。無事60の還暦を迎えてまた、考えた。70までのあと10年間、お迎えが先に来るかもしれないが元気で生きている限り、カミさんが希望していた海外旅行と社会への恩返(9年間国立大学の安い授業料と育英金で卒業したが、多大な税金を使ったことだろう)をしようと決めた。 そう決めてから、はや10年があっという間に過ぎてしまい、70になってしまった。毎日のように晩酌をたしなみ、タバコをふかしているにもかかわらず、きわめて健康な状態である。
 さて、これから10年(この身体状態なら後10年ぐらいはという変な自信が湧いている)どのように生きていこうかなと、カミさんの兄貴のように日本を去ってペナンでの生活もよいのかなと、そこでひっそりと静かに、隠れて生きるのも・・・・。カミさんにこの話をしたら即座に「嫌です」と一言。あれこれと考えているうちに、私のサイエンス抄訳のボランティアの親友がすい臓がんで「余命半年」と宣告されてしまった。私よりも若く、山登りが好きで定年後は毎月のように仲間と登っていたぐらい元気者であった。
 どう過ごそうが、どう生きようがあれこれ考える年ではないのかもしれない。余命を心置きなく過ごすことにした。

諏訪地方・・・猫跨ぎ

  出雲族が日本海沿岸伝いに北上し、糸魚川を南下して諏訪地方に達したとはもう確定した史実なんだろう。諏訪地方に船や航海に関係した神事を執りおこなう神社があるとか。諏訪大社の御柱祭の巨木と出雲大社の神殿の巨木も繋がりがあるのだろう。淵源をたどれば、南アジアの海洋民族が北上してきた大きな流れの中に位置づけられるのだろう。
しかし、支配者が侵入しても、服属した側は滅ぼされることなく、別な役割を与えられて支配体制に組み込まれるのはこの列島の特徴なのかもしれない。古事記には出雲神話がたくさん収録されているのもそのあらわれなのだろう。

2012年7月8日日曜日

神長官守矢家・・・褌子

      世を捨つることなく生きて冷や奴  伊藤桂一
  最近、国兼さんが登場しないので、電話してみた。
  原発再稼働など腹のたつことばかりで生きるに値しない世の中を嘆いて何にもする気が起きないとのことであった。   まさに世捨てびとのてい。しかし冷や奴に酒なら上野まで呑みにいってもよいとのこと。早速、小蔵ひでをさんに国兼さんを励ます集いを提案した。
   こちらも長雨の気晴らしに、土偶「縄文のビーナス」がみたくなり、茅野市の尖石縄文考古館にいってきた。【写真は縄文のビーナス・古代カラムシと麻・瑪瑙首飾りの女房】
  そのあと、縄文人の末裔の薫りをもとめて茅野市の神長官守矢史料館をたずねた。
  諏訪盆地には『古事記』の出雲のくにの国譲り神話とは別の神話が語り伝えられてきた。【写真守矢史料館外観】
  大和朝廷の日本統一よりいぜんのことだが、出雲系の稲作民族をひきいた建御名方命(タケミナカタノミコト)が諏訪盆地に侵入してきたときに縄文、弥生以来の洩矢神(モリヤノカミ)を長とする先住民族が天竜川の対岸に迎え撃ったが敗北。勝者建御名方命が諏訪大社の祖神、諏方大明神となり、子孫の大祝諏方氏が歴代諏訪盆地を政治的に支配してきたと伝承されてきた。
  いっぽう洩矢神は滅ぼされることなく諏訪大社の神長つまり筆頭神官の地位に就き、洩矢神は守矢となのって何と七十八代もつづいてきた日本史上の奇跡ともいえる家柄である。もっとも天皇家が神武から最初の五代までは全く神話上の人物であるように、七十八代といっても最初の洩矢神から十代くらいは●●神となっていて一子相伝の口伝で語り伝えてきたというものだから、室町初期の『諏方大明神画詞』に記述があるというもののアヤシイぞと思った。織田氏や武田氏、武田氏に滅ぼされた戦国武将の諏訪氏、村上氏などの守矢氏への書状や江戸期の民俗学者菅江真澄などの訪問記録が長野県史的文化財に指定されているのに『守矢氏系譜』は指定されてないようだ。神長官としては当主守矢早苗氏の祖父のときに明治維新後の神仏分離令で職を解かれ、当主自身も元教員で東京に住んでいるという。
  
  土壁、鉄平石の屋根からなる神長官守矢史料館にはいると諏訪大社御頭祭の神事を摸した77頭の鹿や猪、熊の生首、兎の串刺しなどにおどろく。自然とともに生きた狩猟漁労時代の縄文的面影が色濃く残る神事に興味がつきない。
  大陸系の大和朝廷とは別の縄文系の日本人の残滓みたいなものシャーマニズムなどに興味があるひとは神長官守矢家史料館を訪ねると面白かろう。洩矢神は卑弥呼のような呪術師でありシャーマンだったのだろうか。
【写真は守矢史料館そばの大祝諏方氏歴代墓石群】

  

2012年7月5日木曜日

函館通信182・・・猫跨ぎ句評・・・仁兵衛

 相変わらず猫跨ぎさんの句作りの力に感じ入っている。特に今回は身近な事と自然事象との取合せが優れている句が私は気に入りました。
・遠雷や手帳に覚えなき略記・・・中七・下五を抽出してきた所に力を感じる。そして遠雷という季語の選択が素晴らしい。
・夕暮れのピーマンの種桶に浮き・・・これは実際に体験されているのでしょう。私には発想としても観察としても全く出てこない。
・手に残る氷の匂ひ炎天下・・・上五・中七でどんな心象を描いているのだろうか色々想像させてくれそうだ。特に匂いと表現された所が一番気になった。勿論炎天との取合せも絶妙ではなかろうか。特選。
・日本海昏し大粒のさくらんぼ・・・「くらし」と言う日本語は実に広い感覚に溢れている。その言葉を実に見事に句に生かしていると思う。特選と思ったのだが中七の字余りを感じ準特選とした。

夏の猫句鑑賞・・・・褌子

・遠雷や手帳に覚えなき略記
   遠雷。手帳。遠近感、確かに生きているという実感あり。
   手帳に何でもメモする。いい習慣だ。すぐ忘れる。いい習慣だ。
・桃色の心臓模型夏兆す
   桃色が鮮やか。心臓模型に質量感あり。
質量の起源であるヒッグス素粒子がみつかってよかったね。17個全部そろった。
自重69キロの原因がわかった。めでたい弥栄
・六月や踊り場にある世界地図
   かなり古いくすんだ世界地図にちがいない。   
・夕暮のピーマンの種桶に浮き
   作句の骨法躍如。なぜか貧乏暮らしの一葉のほつれ髪が目にうかんだ。準準特選
・むつかしき貌してゴーヤぶら下がり
   ゴーヤって渋面でぶつぶつしていて苦みあり。準特選
・地べたから捩れてをりぬサルスベリ
これはうちの百日紅のことだ。
・手に残る氷の匂ひ炎天下
    氷のにほひ、しゅうるりありずむ。炎天下。まさに盛夏到来。
・日本海昏し大粒のさくらんぼ  
    日本海の色と南仏ではじめてみた地中海の色とはこんなに違うのかと驚いた。
    まさに昏しだね。松本清張『ゼロの焦点』能登の海も水上勉『越後つついし親知    らず』の海も昏しだ。つやつやと赤いサクランボとの対比鮮やか。
    桜散る海青ければ海に散る  のウルトラマリンの色とは違うのだ。
    蛇足ながら沈潜した寡黙な愚生の性格も日本海の海がつくったもの。
・撫で牛を平手で叩き盛夏かな
撫で牛っていうのか。俳味十分。特選である。
・ありふれた夏の夜なりグラス割れ
    夏の夜ってこんな感じだね。ゆんべビール用極薄コップ洗って割ったばかりです。


お師匠句拝見・・・・逸徳

どうもいかんなあと直感的に思うのは、おいらにはどうも深読みしすぎる傾向がある。読むこと自体が一種の創作といえばカッコウいいが、とんでもない変なことをやっている可能性もあるかな。 こういう笑い話がある。 ある著名な画廊で新進の現代画家たちのコンクールがひらかれた。抽象画が主流である。その中で特選となった画家の作品をめぐって、その前で観客や有名な批評家、さらには美術商、美術ジャーナリストなど関係者がたくさんあつまって、その絵についてのけんけんがくがくの議論になった。いったいこの絵は何をあらわしているのか。テーマは何か。色調はどうかなどなど、ありとあらゆるうんちくがよせあつまり、その絵を見ながらそれこそ、つかみあいにならんばかりの議論がおこった。その最中に、突然その絵を書いた画家があらわれ、ひとごみをかきわけるようにして作品の前までいくと、「あっ、すまんすまん。ついまちがえた。もうしわけない」とつぶやいて、かけてあった絵をさかさにひっくりかえしてかけなおし、さっと会場から消えた。・・・・・ この話おもしろいなあ。

・遠雷や手帳に覚えなき略記
  ・・・・いやあ、とうとうおたくもはじまりましたか。でもまだいい。おいらなんか、その手帳をどっかにおきわすれる。
・桃色の心臓模型夏兆す
  ・・・・心臓模型というのは心臓という概念を見ているのである。夏がくる。生命力の高まり。だが頭の中では心臓がうごいていても、目前のそれは永遠に静止している。 死というものとはちがう。なんだろうこの感覚は。
・六月や踊り場にある世界地図
 ・・・・ 天地は命を祝福し、新緑が世界を染めているというのに、世界地図はまだ「踊り場」なんだ。上にいくのか、下にいくのか。
・夕暮のピーマンの種桶に浮き
 ・・・・ ごめん。ピーマンあんまりすきでない。あんなに緑なのに中はからっぽじゃん。だまされたような気になる。
・むつかしき貌してゴーヤぶら下がり
 ・・・・ 相貌ということばがにあうなあ。ゴーヤは。 天然痘がはやった江戸時代の日本人みたい。いいたいこともあるだろうに。
・地べたから捩れてをりぬサルスベリ
 ・・・・ 捩じれてということばをえらんだ瞬間の作者の心理に興味深々
・手に残る氷の匂ひ炎天下
 ・・・・ 氷の匂いという表現に感心した。日本人的な言語感覚か。静けさを「しーん」と書くのににているような。
・日本海昏し大粒のさくらんぼ
 ・・・・ 一粒のいのちの確かさ。なんか、大きなまっくらい舞台の上で、一ケ所だけずっとしぼったスポットライトがあたったような。
・撫で牛を平手で叩き盛夏かな
 ・・・・ 牛よがんばれ。おれももうすこしいくから。
・ありふれた夏の夜なりグラス割れ
 ・・・・ いい瞬間だと思う。・・・・きっぱりと割りたいグラス、二つ三つ・・・・なかなか思い切れない

2012年7月4日水曜日

空梅雨の気配・・・猫跨ぎ

どうも関東は空梅雨の気配。このまま炎暑をむかえるのか。
ちょっと遅れたが、最近の十句。

・遠雷や手帳に覚えなき略記
・桃色の心臓模型夏兆す
・六月や踊り場にある世界地図
・夕暮のピーマンの種桶に浮き
・むつかしき貌してゴーヤぶら下がり
・地べたから捩れてをりぬサルスベリ
・手に残る氷の匂ひ炎天下
・日本海昏し大粒のさくらんぼ
・撫で牛を平手で叩き盛夏かな
・ありふれた夏の夜なりグラス割れ

2012年7月3日火曜日

日本だけではない・・・・猫跨ぎ

  日本だけではないな、勿論。ヨーロッパでは魔女狩りの伝統がある。ユダヤ迫害は結構古い。かのマルチン・ルターが抹殺しろまがいのことを言っていたらしい、これにはびっくり。ナチスの時代、ユダヤ弾圧をローマ法王庁が、見て見ぬふりをしたのは公然の事実だ。まわりの大衆が大筋許容、いや先兵の役目をしていたことはいうまでもない。
東独、ソ連で秘密警察に情報提供したのはごく親しい隣人だった。簡単に巻き込まれる。我々もいつ加害者になるか、知れたものでない。
吉本隆明が「関係の絶対性」を言ったが、そういう事なんだ。

混戦脱線乱戦とっ組みあい結構結構・・混子

  逸徳さんが「●●についての希望というのではない。希望のうちにいきるという人のありようを捜したい。時間がないのだ。」と書いているが、逸徳さんはまだ30年くらい時間があると思う。この●●は何ですか。
   吉永小百合の『かあべえ』で冷たくおいかえした哲学者は田辺元でしたか。あの映画でいちばん印象にのこった場面。
   あのころ(小生ご生誕のころ)の時代の妖気というのはすごかったようだ。「君死にたもうことなかれ」の与謝野晶子が晩年、狂信的な天皇崇拝主義者として1942年に死んだという文章を読んだことがある。そういえば中川先生も塗炭の苦しみにあえぐ中国民衆を忘れて「悠久の大義」に流されている青島駐留のころの自分を語っていた。
   新渡戸が日本共産党をさしていっているというのは事実か調べてみたい。ソ連の指示でしか動かないようなあんな日本共産党なら国を滅ぼすぞといっているのなら全くそのとおりだ。
   ごく少数ではあったが、獄死した戸坂潤、三木清などの哲学者、日本共産党員、クリスチャンやいわゆる自由主義者の一部などは時代の妖気に流されなかったのは歴史的事実だ。息子や夫を戦地にとられたもの言わぬ圧倒的な民衆は戦争を内心、憎んでいたが天災みたいに思っていたのではないか。おふくろがそんな言い方をしていた。むろん広島長崎はじめ空襲や沖縄戦や引き揚げで生きのびた人びとは辛すぎて何も語らない。竹内浩三みたいに自詩どおり殺されたひともむろん何も語れない。
   生き残った日本人のこどもである我々は70年も生きてきたのだ。あとの時間はなんに使うべきなのか…
   

2012年7月2日月曜日

赤嫌い・・・猫跨ぎ

  混み合ってきたなあ。では、その赤への恐怖が日本で生まれ、育っていった経緯は何なのか。一種の社会心理学の対象ではないのか。キリシタンをすり潰すように弾圧した江戸時代を連想する。、大衆も一緒になって憚るように疫病神のように嫌った。赤も同じだ。「あそこの兄ちゃんは赤らしい」袖引き目引きして大衆は忌み嫌い避ける。キリシタンも主義者も実力の何千倍にも膨らませて恐怖心をあおる。これはセットで考える必要がある。
永井荷風のような軟弱な小説家はともかく、吉永小百合の「かあべえ」だったか。哲学者の田辺元に相談に行って冷たくあしらわれる。ここにいるのは社会の雰囲気に巻き込まれている虚ろなプラトン学者だ。
だから新渡戸稲造はどうだとまた戻る。かれは日本のそんな習俗から随分遠かったと思うのだが。

新渡戸Ⅱ・・・猫跨ぎ

ここで言う共産党は日本共産党のことだろう。ソ連との関連で言えば、コミンテルンの下、各国の共産党に指令を出していた。相当後まで日本共産党はその指令の下、動いていたのだから、そういう事実を国際的な観点から指摘したというのが本当のところだろう。


いま名古屋で・・・・逸徳

��HKの、「日本人は何を考えてきたか」が、話題になってうれしい。前回の堺利彦と孔徳秋水の話しをみんなに見てもらえばよかった。大逆事件という国家犯罪をめぐる話なのだが、おどろいたのは、天皇暗殺を企てて試作された(逮捕の原因となった)爆裂弾というのは、実に七味唐辛子の空き缶をつかっているのだ。あれでは犬も殺せないだろう。さらに、おもしろかったのは当時の社会主義者たちの社会主義というのは、今の中ソにつながる社会主義とはちとちがい、「社会についての主義」つまり「公共性」というものを追及した思想の流れであったという指摘であった。しかしそれこそ問題だというわけで政府は大弾圧にのりだす。のちに内閣総理大臣になる平沼喜一郎は当時の取り締まりの責任者であったのだが、その回顧録で、あとから彼らが無実であったという証拠など一切でないようにせよ。証拠などはどうでもいい。そういう考えをもった人間を絶滅しなくてはならないと、明確にいいのこす。史上これほどはっきりした国家犯罪は数少ないとフランスの研究者が指摘していた。そしてすべての社会主義者に関係する(とみなされた)ものには警察の尾行がつく。こういう状況に日本のインテリはなにをしていたか。そもそもそういう人種がいたのか。たとえば、さっさと逃げ出した筆頭が永井荷風だろう。石川啄木は「時代閉塞の現状」を書くが、あとに続くものはいない。そして、国民を赤の恐怖で 総洗脳し、いまだその後遺症からさめない(実に相当のインテリでもさめていない)状態の被害者が今の共産党かもしれない

もういい。正義がどこにあったかなどという議論はうんざりしている。面白いかもしれないが、あんまり生産的ではない。過去から何を読み取るかは、今自分がどこにたっているかによることなのだろう。希望をさがしたい。○○についての希望というのではない。希望のうちにいきるという人のありようを捜したい。時間がないのだ。

内村と新渡戸・・・褌子

  『内村と新渡戸』は逸徳さんの急報でわたしも見た。といっても後半居眠りしてしまった。最近10時過ぎると眠くなる。
  新渡戸が「国を滅ぼすのは軍閥と共産党」といったというのは初耳だ。昭和7年といえば、ソ連でスターリンの大弾圧が起きていたから、そのことを新渡戸が知っていて言ったのだとしたらソ連に関しては全くその通りになったので炯眼というしかない。当時の中国共産党に関して新渡戸が言ったのだとしたら見当違い。
  ソ連共産党が1993年に解党しソ連が崩壊したときに、日本共産党は双手をあげて歓迎すると声明した。社会主義の大義を最悪のかたちでねじ曲げて国民抑圧の官僚国家をつくり、世界に大国主義を振り回したのだから滅ぶべくして滅んだのである。フランスやイタリアの共産党は、ナチスへのレジスタンスで戦後ずっと大きな国民的支持を得ていたのに、ソ連共産党から資金援助をうけていたことが暴露されて一挙に国民の支持を失なった。

内村と新渡戸・・・猫跨ぎ

きのうのNHKの「内村鑑三と新渡戸稲造」は見たよ。
札幌農学校入学はクラークとは入れ違いだったが、キリスト教の洗礼を受けている。後年、内村は無教会主義を創始し、新渡戸はクエーカー派の敬虔な信徒となった。共通して言えるのは、安易に状況に追随しない信念と(キリスト教(プロテスタント)のバックボーンか)、同時に印象的だったのは、捕らわれない精神の闊達さではないか。
  内村は日清戦争は日本の勝利を祈願するが、すぐその間違いに気付き、日露戦争では絶対非戦論の論陣を張る。前後するが一高不敬事件がある。信念には躊躇しない。何だろう、倫理観の深いところでは当時の他の日本人から突出している。
  新渡戸は進学した東大の学力レベルの低さに幻滅し(!)、アメリカへ飛び出したという。全部英語の授業をこなした札幌農学校の卒業生の学力は随分高かったという気がする。後年、学者としてまた国連の事務次長をこなしたりする。捕らわれない闊達な国際人だ。昭和7年所謂、松山事件がある。オフレコで「日本を滅ぼすのは軍閥と共産党、就中軍閥だ」と言ったのが報道されてしまった。憤激した右翼から命を狙われる始末。まもなく渡米しカナダで客死。ところで共産党が名指しされたのは何故か。その数年前の大弾圧で壊滅していたはずだ。褌子氏は余り愉快な話ではないかも知れないが、新渡戸の視点は世界を俯瞰していたはずだ。あの頃の国際派の知識人が何を考えていたのか、共産党を不快に思っていた理由は奈辺にあったのか。ソ連の動向、中国情勢が絡んでいることは間違いなかろうが。

『ショック・ドクトリン』   ・・・褌子

    『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義』ナオミ・クライン(岩波書店)を読んでいる。
   イラク・アフガン・パレスチナ・ギリシア・北アフリカ・南アメリカ、さらに中国、インド、・・・現代世界で起こっていることを俯瞰する上で、特に未曾有の震災・原発事故に襲われた日本にとって実に示唆的な本である。
   とくにネルソン・マンデラ自伝『自由への長い道』をよんだばかりなので、ネルソンひきいる新生南アフリカ共和国がいかにアメリカ発の市場原理主義に蚕食され屈服していったかに一章をさいていて衝撃的である。
   とりあえず、全二冊の本書の帯封の簡単な紹介文だけを記載してみる。

―――――本書は、アメリカの自由市場主義がどのように世界を支配したか、その神話を暴いている。ショック・ドクトリンとは、「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」のことである。アメリカ政府とグローバル企業は、戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人びとがショックと茫然自失から覚める前に、およそ不可能と思われた過激な経済改革を強行する……。
   ショック・ドクトリンの源は、ケインズ主義に反対して徹底的な市場至上主義、規制撤廃、民営化を主張したアメリカの経済学者ミルトン。フリードマンであり、過激な荒療治の発想には、個人の精神を破壊して言いなりにさせる「ショック療法」=アメリカCIAによる拷問手法が重なる。

2012年7月1日日曜日

re:とりいそぎ・・・褌子

   逸徳さん。「堺利彦と幸徳秋水」。ぼんやり草取りしていたので残念。メールはこういうときの文明の利器だったのに。いま8時だから「内村鑑三と新渡戸稲造」はみる。政治面のニュース以外はNHKもいいねえ(笑)
  大逆事件の幸徳秋水は女房の実家が高知県中村市(現四万十市)で秋水のお墓にもうでたことがある(結婚する前にはじめて女房の実家にいったときに秋水の墓に行きたいといったら義父母が心配そうな顔した)。足尾事件の田中正造の明治天皇への直訴状は秋水が書いた。
  無政府主義者といえば大杉栄だがファーブル『昆虫記』日本初訳もやっていて、中川先生に古ぼけた初訳版を見せてもらった記憶がある。大杉栄は妻の伊藤野枝と関東大震災の時に甘粕大尉に殺された。秋水も愛人管野スガと無実で刑死した。この男女四人についてはいろんな小説がでているので読んでみたい。大逆事件がフレームアップだということはかなり知られていたらしく徳富蘆花が助命にうごき、石川啄木、永井荷風、木下杢太郎、夏目漱石らも大逆事件について書いているそうだ。読んだことはないが。大逆事件は明治43年、小生が生まれる32年前のことでこっちも70年生きているわけだからちっとも古い話ではない。過去がかえって近く感ずるのは加齢のいいところだ。
  小生がこういう事に関心をもったのは、2・26事件で刑死した北一輝が佐渡出身だということも少しはある。北一輝については戦前右翼の親玉くらいに思っていたが近年研究がすすんでいて非常に興味深い事実が発掘されているようだ。

とりいそぎ・・・・逸徳

偶然教育テレビをつけたら、今日の午後3.00から4.30まで大変面白い番組をやっていた。「日本人は何を考えてきたか」というタイトルで、日本の近代思想史のトピックをおいかけているらしい。3.00からのはアンコールで四回目。とりあげたのが幸徳秋水と堺利彦。非常におもしろかった。フランスのなんとか第三大学の女性教授が出てきたが、どうも幸徳秋水の研究者らしく、話も日本語も驚異的にうまかった。実は今夜10.00から第5回目をやり、とりあげるのが内村鑑三と新渡戸稲造である。北大OBとしてはみずばなるまい。 とりあえずみなさまにとりいそぎ告知

ネルソン・マンデラ自伝『自由への長い道』・・・褌子

   小沢は嫌いなタイプだが、消費税反対、反原発をいうのは決して悪いことではない。しかし彼の著書『日本改造計画』では消費税10%、原発は必要といっていた。要するに政局をもてあそんで生き残るためには何でもありの男なのだ。彼については猫跨ぎさんはいぜんファシストのにおいがすると発言していたが、私も同感。
   ネルソン・マンデラ自伝『自由への長い道』(NHK出版)をやっと読み終えた。300年におよび白人支配とたたかって27年間も投獄されながらついにアパルトヘイトを打ち破って南アメリカに民主主義国家をうちたてた偉大な男の自伝。幼年時代の思い出からはじめて、70数年の闘いの歴史を淡々と語りつづける。長時間かけて敵をも味方にしてしまう実に寛容な精神の持ち主であることに感銘をうけた。ほかのアフリカ諸国は列強から独立したときに白人たちに報復したり本国に追い出したりして、そのあとの政権が腐敗し黒人同士の内戦になったところが多い。その点、ネルソン・マンデラひきいる党は徹底して昨日の敵の白人たちとの融和を追求する平和路線をとって成功した。白人の政敵デクラーク首相といっしょに1993年、ノーベル平和賞をうけたのが象徴的。二回の離婚の経過がせつないがあまりに過酷な革命のみちと家庭生活とは両立できなかったことを隠さず語っている。成人した子供たちは父の歩んだ道を理解し、たくさんの孫やひ孫にも恵まれたことに読者も救われる。
   じつは英語の勉強と思って『LONG WALK TO FREEDOM』を読み始めたがたちまち面倒になって日本版を読んでしまったが訳者は東江一紀氏という1951年生まれの北大文学部卒。違和感がない読みやすい訳文。いい本に出会えた。
・・・しかし、ネルソン・マンデラひきいる南アフリカに、新自由主義が襲いかかるのである。