��HKの、「日本人は何を考えてきたか」が、話題になってうれしい。前回の堺利彦と孔徳秋水の話しをみんなに見てもらえばよかった。大逆事件という国家犯罪をめぐる話なのだが、おどろいたのは、天皇暗殺を企てて試作された(逮捕の原因となった)爆裂弾というのは、実に七味唐辛子の空き缶をつかっているのだ。あれでは犬も殺せないだろう。さらに、おもしろかったのは当時の社会主義者たちの社会主義というのは、今の中ソにつながる社会主義とはちとちがい、「社会についての主義」つまり「公共性」というものを追及した思想の流れであったという指摘であった。しかしそれこそ問題だというわけで政府は大弾圧にのりだす。のちに内閣総理大臣になる平沼喜一郎は当時の取り締まりの責任者であったのだが、その回顧録で、あとから彼らが無実であったという証拠など一切でないようにせよ。証拠などはどうでもいい。そういう考えをもった人間を絶滅しなくてはならないと、明確にいいのこす。史上これほどはっきりした国家犯罪は数少ないとフランスの研究者が指摘していた。そしてすべての社会主義者に関係する(とみなされた)ものには警察の尾行がつく。こういう状況に日本のインテリはなにをしていたか。そもそもそういう人種がいたのか。たとえば、さっさと逃げ出した筆頭が永井荷風だろう。石川啄木は「時代閉塞の現状」を書くが、あとに続くものはいない。そして、国民を赤の恐怖で 総洗脳し、いまだその後遺症からさめない(実に相当のインテリでもさめていない)状態の被害者が今の共産党かもしれない
もういい。正義がどこにあったかなどという議論はうんざりしている。面白いかもしれないが、あんまり生産的ではない。過去から何を読み取るかは、今自分がどこにたっているかによることなのだろう。希望をさがしたい。○○についての希望というのではない。希望のうちにいきるという人のありようを捜したい。時間がないのだ。
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