2011年10月24日月曜日

みなさま お世話になりました・・・・逸徳

すでに東北は秋深く、静岡からいえば秋を出迎えにいった旅でした。大変楽しい旅で、考えてみたら行く先々で芋煮汁を食べていた記憶と、いつも褌子氏を待っていた記憶がつよくのこり、なかなかな旅でしたよ。で一句・・・・
   風狂を いう友もあり 紅葉燃え
で、この「紅葉燃え」は考えたら、何につけても句になりそうな気がしてきました。・・・・山伏の 青年の顔 紅葉燃え・・・・ この池に 鏡投げるか 紅葉燃え・・・・もうどんどんいっちゃう・・・・ 今宵また 芋煮汁食う 紅葉燃え・・・・ 君が頬 紅さすごとく 紅葉萌え・・・・ 思いきる 思いもありて 紅葉燃え・・・・・ この色を 届けたき人 紅葉燃え・・・・・ やや粗製乱造の言葉遊びでした。

で、今回の旅で感じたこと少々。 その一 いや確かに、この日本の風土では「一神教」が生まれるわけがないなあという気がしました。キリスト教を「父性宗教」「砂漠の宗教」といった人がいますが、あの出羽三山の山の中にたってみると、霧の流れる山の上から確かに誰かがこっちを見ているというイメージが生まれてもおかしくありません。こんな詩を紹介します
  むかし むかし
  おじいさんは 山へしばかりに

  むかし むかし
  おばあさんは 川へせんたくに

  むかし むかし
  川上からももがひとつながれてきた

  むかし むかし
  いろりの火だけがあかくもえ

  むかし むかし
  山にも川にも 神様が ひとりごとを言ってあるいておられた

  むかし むかし
  どの家からもうすをつく音が聞こえ

  むかし むかし
  ひとつ星が さむそうに山の上にまたたいていた

  むかし むかし
  そんな川べりで 桃太郎は大きくなった

  
  むかし むかし
  そんなくらい明けがたのみちで
  桃太郎は 山からくるきじにであった
                                       百田宗次

なんともさびしく しみじみとした光景がうかんできます。あの注連寺のある部落で雪がふったら こんな世界になるのでしょうか。 そして そこでは 山にも川にも 神様が ひとりごとを言ってあるいておられたのです・・・・ やっぱり どう考えても日本ではキリスト教がひろがるのは 限界がありそうな気がします。

もう一つの成果が土門拳記念館でした。 ひさしぶりに再会した「筑豊のこどもたち」。 自分が年をとったからでしょうか。 若いときに感じたのとはまったく違う、もっと強い衝撃を感じました。特に感じたのは「こどもの目」です。一般にポートレイトでは、対象となる人はカメラをみています。しかし、すぐ気が付くのですが、モデルとなった人が見ているのは、カメラではなく、カメラを構えているカメラマンなのです。あるいはそのカメラを通して感じている、カメラマンのまなざしといってもいいのかもしれない。人は、どんなまなざしで人を見るのか。そして、見られたひとは、そのまなざしからなにものかを感じとって、さまざまなメッセージをこめ、あるいはそこにいま「いる」という事の重みのすべてをこめて、そのようなまなざしでこちらを見返しています。見るという行為は必然的にかかわる行為なのです。そして、そこにひとつの対話が成立するのです。そしてそれは、まるで強靭なくもの巣のように、こちらをからめとります。あの極貧の中で、人としての矜持をしっかりといだきながらも、がんばっていた少女、るみえちゃんという名前でしたか。あの子のなんともいえない悲しみをこめたまなざしは、まさにそういうものでした。40年の時をこえ、土門拳のカメラをつきぬけて、今ここにいるわたしに、ひとつの問がつきつけられます。・・・・「わたしは ここにいる。あなたはどこにいるのか・・・・あなたはいったいだれか」 すみません・・・ああ、ぶざまに年をとったなあと思いました。

ちなみに彼女も妹さんものちに幸せな結婚をしたと、ネットにはかかれていました。



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