2011年8月31日水曜日

私の常識・・・猫跨ぎ

  一般論としては逸徳氏の言うとおりで何の異論もない。ただ私が拘るのは一点だけだ。
時代環境、随って我々の意識も幾何級数的に変動している前と後では常識も全く違うと言うことだ。裁判官だって同じだ。彼等こそ時代の常識をたっぷり意識している。それはまさに常識だ。
今の常識で過去を裁断することは虚しい。あの契約書を作った担当者も後になって忸怩たる思いに駆られたことはいうまでもないだろう。彼等が罪を負うべきでないとは言っていない。決着を付けねばならないとき当事者は彼等だ。これも今の社会の常識だろう。

むかしばなしもええなあ・・・・逸徳

仁ちゃんの投稿を読んでいて思い出した。就職1年目だったと思う。仁ちゃんからのハガキを読んだ記憶がある。おそらくご本人はもう忘れているだろうが。 このハガキ、どこで読んだか、そもそも誰宛のハガキだったかも、もうさだかではない。 印象強く残っているのは、次のような文面である。社長のことばを聞いた感想らしい。おそらく技術系社員への話かなにかで聞いたのだろう。社長いわく・・・「技術者というのは、高価な脂身みたいなもんで、金のフライパンにのせて下から、火であぶると、タラリタラリと高価な油を流しだすのだ」と。 仁ちゃんは森の石松みたいなタンカを切って、だいぶ怒っていたが、おいらにとってもこれが大企業の本音かと、インパクトが強く、のちに自分が会社をやめてやると思ったときのひとつのバックグラウンドデータになっていたかもしれない。仁ちゃんおぼえているかい。

お師匠へ。そりゃ、協定書は法務部が書いたかもしれん。しかし、技術者たちはすくなくともそれを知っていただろうし、原因が工場にあることも感じていただろう。それは猫実験をやった細川博士(付属病院の院長だったと思う)ののちの発言をみてもわかる。おいらが感じるのは、そのとき何を技術者たちは考えていたのかということだ。単純に「許せん!」と断罪する気はない。今となっては。弁護する気も全然ないが。 ・・・・むしろその時のひとりの技術者の内面を想像する。何を思っていたか。何を大切と思い、何を感じていたか。そういう想像力を働かせるのも必要でないかなあということである。さらにまた、瑕疵があってもあとから責任はとらないという契約書が、ある面ふつうのことであるのなら、裁判所は前代未聞の「公序良俗に反する契約」なんて、なんでいったのかなあ。 よっぽどふつうではない気がするのだが。それにしても、こういうアイデアを考える法律専門家のことを考えていたら「法匪」ということばを思い出したよ。

函館通信152・・・ぽっとして・・・仁兵衛

 逸徳さんの話で昭和20年、30年台の事に集中していた所を読んでいてなかなか面白いと思った。50年以上も経っているのに昨日のような感じがする。東海村で原子の火が点った頃より10年ぐらい前に湯川さんはノーベル賞を貰ったが、小学生の自分も「すごいなー」と感心していたのだろう。科学の夢に酔いしれていたのかもしれない。その後湯川さんは原水爆禁止の世界科学者アピール活動行っているが、一方米ソをはじめ中国、英国、フランスなどが次々と核実験を行っていたのもこの頃だろう。米ソ核実験反対を叫んで大通りをジグザグデモで走ったのも同時期だ。そして五本さんにぽっとしていた自分も居た。
 国内では逸徳さんの言う公害汚染が深刻に進んでいたし、何か科学と技術の乖離が更に大きくなった時期なのかもしれない。しかしその技術の中で私自身食ってきたと思うと僅かながら内心忸怩たるものも感じる。まあ人間が生き延びるためにも更に科学技術の発展は必要と思うしそのときの選択が人間にとってますます重いものになりそうだね。
 
 俳句の17文字の中では自分の主張を前面に出すことは難しい。敢えて出そうとすればスローガンに化けるのかもしれない。ただ日記的に俳句を作っていると自分の歴史が出来てきているようでこれはこれで面白いと思っている。昭和20年、30年に自分が何を考えていたのか想像して句を作るのも一考である。又どこかでぽっとしたい。

あの時代・・・猫跨ぎ

「今後、病気の原因が工場側にあるということがわかっても、これ以上の補償は求めない」
新たに見つかった瑕疵は問わない―と一般化すると、こういう論理は会社にいるとよく経験する。例えば会社同士で土地を売買する場合、将来土壌中に何か怪しげなものが出て来ても一切責は負わないという一項をいれたりする。単年で金の出し入れは済ませてしまいたいという発想が基本にある。
そうか、一般中古住宅の販売でも確かこんな一項は入れているはずだ。

そういう常識の中で処理してしまったという例だろう。こういう見たとこ血の通わない言い方を人間相手にするという異常さを感じる感性が無かった。水俣病の悲惨さが明らかになってその異常さがますます目立つのは、みんな知ってしまった我々の感性だ。
背景に我々は社会の為に重要な仕事をしている。君達は一般庶民である。これを下し与えるからもう騒ぐなよ―という明確な差別意識が有ったことはいうまでもない。

ところでチッソの交わした契約は工場技術者が書いたものではない。本社の法務部が作ったものだ。彼等は法学部出身であり、当然顧問弁護士と相談している。だから当時の法律専門家の判断でもあったわけだ。
科学哲学不在、はいささか大袈裟でないかい。

鉄腕アトム世代・・・・逸徳

以下に述べるのは、おいらの漠然とした私見である。あんまり深い論拠はない。
 おいらたちぐらいの世代と、そのちと前の世代を鉄腕アトム世代とよんだ学者がいる。確か小学校の3年で、あの鉄腕アトムの連載がはじまったのだ。そして、アトムの成長とともに、われわれの幸福な少年時代があった。アトムの物語は、科学技術の可能性と、その発展が人類の幸せな未来につながるという(漠然としたものではあっただろうが)、夢をわれわれにいだかせてくれた。 漫画を読みすぎて、乾電池と豆電球をつかってレーダーはつくれないかということを一生懸命考えてノートにアイデアを書いたのは、小学校の5年である。ああ・・・・

 そして、科学技術に対する純朴な信頼感をもったまま、この世代は高度経済成長を支える中核に育っていく。それはまた同時に、同時に公害を引き起こした科学技術のありように深くかかわっている世代でもある。つまり科学技術の陽の面だけに目をうばわれ、あまり陰の面を考えることがなかった、あるいは少なかったのではなかったか。あるいはそういう視点の教育をあまり受けなかったのか。簡単にいえば哲学不在である。

 このことについては、痛烈な記憶がある。水俣病の患者たちが、新日本チッソ水俣工場に対して、必死の抗議行動を展開した結果、会社側との間で損害補償の協定が結ばれることになる。初期の話である。その補償金は、わずかなものであったと聞く。ところが、その協定書の中には、「今後、病気の原因が工場側にあるということがわかっても、これ以上の補償は求めない」という一項が含まれていたのである。このときすでに、会社側の技術者たちはうすうすと原因はわかっていたらしい。有名な細川院長のネコを使った水俣病再現実験は、この前になる。
そしてのちに、この協定は民法にいう「公序良俗に反する契約」ということで、裁判所によって無効を宣言される。

 「公序良俗に反する契約」というのは、たとえば人身売買契約などがこれに当たる。いったいなぜ、このようなことがおこったのか。そのとき、会社側の技術者たちはなにを考え、何をしていたのか。これは、日本科学技術史上のひとつの恥部であるだろう。このへんのことは、すべての工学部の教科書に乗せるべきだろうし、科学技術倫理とでもいう講義がひらかれるべきだろうと思うのだが。

 なぜこうなったのか。ひとつは日本人と、近代科学技術の不幸な出会いがあるという気がする。黒船来航以来近代の西欧の進んだ科学技術に出会い、鎖国のなかで寝ぼけていた日本人の脳みそがごつんとぶったたかれてから、日本人はひたすらそれに追いつこうとした。その努力は大変なものだったし、それを可能にした素地もあった。だが、人間と科学とか、科学と社会といった、民主的なものの見方や、科学哲学などの側面は、ぽっかりと抜け落ちていたのではなかったか。 つまり、日本の近代科学技術は、その生い立ちにおいて、きわめて強く「実学」の側面を持っていたのである。実学とはプラグマティズム的なものである。(あくまで「的」である) つまり「役に立つかどうか」ということが価値判断の基礎になる。 その実学のひとつのあらわれが「工学部」だろう。世界最初の工学部は、実は日本でつくられたのは有名だし、公害が激しくなったころ、公害問題を専門に研究する講座は日本のどこの大学にもなかったと、宇井純さんが語っていたのを思い出す。
 そして「役に立つ」ということは、日本経済の資本主義的発展とともに、簡単に「会社の役に立つ・・・もうけるかどうかに役に立つ」ことこそが「善」という方向に歪んでいく危険性が内在していたのではないか。それは哲学のない科学技術の当然の帰結ではなかっただろうか。その先に「公序良俗に反する契約」に手を貸した技術者が出現したようにみえるのだが。 鉄腕アトムには、ちゃんとした哲学もあったと思うのだが。今となっては年寄のぐちである。

 

2011年8月30日火曜日

東海村・・・猫跨ぎ

  1957年の東海村の原研原子炉の臨界、運転開始はよく覚えている。朝野をあげての大歓迎だったと記憶する。たしか中学二年生だったか。新聞や週刊誌にも次々に関連科学記事が連載され、いっぱし判ったような気分で大いに読んだ記憶がある。あの年だったか、北海道博覧会があって、原子力利用のコーナーがあったのもよく覚えている。原子核の周りに電子軌道を描いている模型があちこちにあって、進歩の象徴の様に見えた。
当時の研究者は底抜けに未来を信じていたのに違いない。技術の進歩と経済の成長と生活向上とがセットになって無邪気に未来が信じられていた幸福な時代だったね。

佐佐木信綱の短歌はあの時代をよく反映していると思う。
短歌は社会タネをよく扱う。短歌の特徴かとも思うが、戦時下の国威発揚、反戦歌しかり。
安保の時も、福島泰樹とか道浦もと子らのスター歌人を生んだ。その点、俳句は戦後どうもおかしい。先般、戦時下の新興俳句弾圧事件に触れたが、その後遺症か戦後社会性俳句は全く勢いがない。安保の時もさっぱりだった。久しく花鳥諷詠のホトトギスの天下だね。俳句の特徴かもしれないとも思うが。

2011年8月29日月曜日

秋の気配・・・褌子

  近所の田んぼで稲刈りをしている。暑い日が続くがやはり秋の気配。やっと八月もおわり。
 九月下旬には上海の魯迅生誕130年シンポに参加する。3日間のシンポのあと日本からの参加者と西安に飛んで兵馬俑をみる。さらに河西回廊をとおって敦煌の莫高窟などを再訪。吐魯番(トルファン)、烏魯木斉(ウルムチ)まで足をのばす。
  西安ははじめて。周・秦・漢・隋・唐(長安)の都はいずれも西安周辺にある。唐の長安は井上靖『天平の甍』『楊貴妃』や松本清張『眩人』などの舞台。今回は唐よりもずっと前の秦や李陵・王昭君・班超など前漢・後漢の匈奴とのたたかいの物語を読んでいきたいと思う。そのころ、日本は弥生時代だった。

2011年8月28日日曜日

ゼロの焦点・・・・褌子

  以下に書く地名、固有名詞などはすべて架空のものであるが、最近わたしが経験した事実である。
 戸籍のないKさんは自分の名前と誕生日、父の名前いがいにはわずかに「保土ヶ谷」にいたことだけを憶えているという人である。解離性健忘症でまったく記憶が喪失しているのである。家裁に「就籍」の申し立てをしてもう一年になる。保土ヶ谷がたぶん横浜の保土ヶ谷区にちがいないと、横浜の全ての小学校に裁判所の職権で本人の記憶する誕生日の前後10年の幅をとって、徹底調査を依頼してきた。
 半年以上の調査をへて、同姓同名の学童が保土ヶ谷小学校に在籍していたという証拠書類がでてきた。 だが誕生日が本人の記憶する誕生日と全くちがっており五年もさかのぼり、昭和20年生まれとなっていて、同姓同名の別人だという可能性を排除できないと家裁裁判官はいうのである。学童の保護者名もないが、月丘台52と住所が記載されている。
 そこでKさんとカーナビを頼りにこの住所を訪ねる旅に朝早くでた。月丘台にたどりつき旧家の町会長さんなどをきいてまわると月丘台いったいは空襲で半分以上が焼けた所であること。戦災孤児もたくさんいたこと。戦後、住所変更されて全くちがう地番になっていることがわかった。
 区役所でこの月丘台52の新しい地番を調べて、車のナビをつかって新しい地番の所在地を訪ねあてた。 暑い日だったがすでに日が陰りはじめている。
 そこは200坪くらい駐車場だった。管理している不動産屋に電話をしたが、お客でないとわかると電話を切られてしまった。その駐車場周辺の住宅を二〇戸近くしらみつぶしに聞きこみをしてゆくが留守宅がおおい。ほとんどが怪訝な顔をして、さあわかりませんとすぐドアを閉める。
  Kさんと汗をぬぐいながらもうあきらめようかと、最後の一軒の古い家のブザーを押す。70才くらいのご夫婦がでてきて「あの駐車場はむかし孤児院でしたよ。米軍のバンドが慰問にきていたから憶えています。孤児達の火遊びで火事になり閉園になったときいている」との証言をついに得た。駐車場の地主がちかくの無量寺だからいってみなさいと教えてくれる。
 無量寺の住職の親切なお母さんがむかし孤児院に貸していたときの地代の領収書の束を探し出してくれた。そして孤児院の経営者の息子さんがたしか北海道の士別市にいますよ。もう80才くらいになると思いますが、私の義父の住職が孤児をひきとって学校に通わせている孤児院の経営者を尊敬していて年賀状のやりとりをずっとしていたから、探してみますというのである。セピア色になった賀状がやっとみつかって士別市に電話をすることができた。
 電話の向こうの声は「火事で孤児達の名簿が焼失してしまったと親からきいている」ということであったが、Kさんと私は、Kさんのルーツをついに探し当てたという思いでいっぱいで親切なお寺をあとにした。ただ孤児院周辺の景色をみてもKさんの記憶はまったく戻らない。保土ヶ谷小学校の旧校舎跡にたっても記憶にないとさびしく首をふるばかりである・・・・
 以上の内容を詳述した報告書を家裁に提出。再度の審問の日も決まった。さあどうなるか
 ―――――松本清張に『ゼロの焦点』という傑作がある。戦後の混乱期に米兵相手の売春婦に身を落とさざるを得なかった女性が過去をいつわって北陸の都市の名流夫人におさまっているという話である。次々と起こる殺人事件について丹念に聞きこみをしていくこの推理小説を読んでいたことが、こんどのKさんの出自を求めての聞きこみに多少役にたったかもしれない。Kさんもこの小説を読んでいる。
 Kさんが横浜空襲の戦災孤児どうしの同棲から生まれた子供で母親が家出をして育てるのに窮した父親が上記の孤児院に預けたのにちがいないというわたしの推理はたぶん当たっているのではないか・・・そんな気が今している。
 

2011年8月27日土曜日

北電もやらせシンポ・・・褌子

通産官僚だった北海道知事が北電から献金うjけていたと思ったら、こんどは北電ぐるみのやらせシンポが発覚した。
こんな状況下で泊原発をずるずる運転するのはおおいに疑問だな。

函館通信151・・・原子の火・・・仁兵衛

 道新を読んでいたら目に留まったので投稿しました。
 54年前の1957年8月27日は茨城県東海村の日本原子力研究所第1号原子炉が臨界に達し、日本で初めての「原子の火」がともった日だそうだ。次世代の希望の熱源としてわくわくしてた研究者、技術者、経済人が沢山居たのだろうね。正式には同年9月18日に「原子炉運転の儀」がおこなわれ、正力松太郎がスウィッチを押している。
 招待客に配られた記念扇子には佐々木信綱の歌が入っている。
 「人の力 原子の力 相合ひて 生まれむ未知の世界を思ふ」
 この種火から54年経ってくしくも54基の原発が作られその内の4基が壊滅的事故を起こしてしまった。多くの国民が原発に懐疑的になってしまったが当時の研究者、技術者の本音はどんなものであろうか。歌にある「未知の世界」を何時の世も正確に描けなかった人間の浅はかさなのだろうか。

 

2011年8月26日金曜日

コラコラ・・・○○

  勝手にアアダ、コウダト困ったもんだ・・・。猫跨ぎさんの言う「爽鐘」も、私の口癖の「そうかい」?からと。そうかなと思いつつ・・・。云われて見ればさわやかな感じの、ミレーの晩秋の風景を思い出させるような、なるほど捨てがたい味があるなと。「痩鐘」ネー???
一句浮かんだ
 痩せ蛙 鐘の音を聞き 水の音

で、怪人20面相的にそのときの気分や、書いた内容に応じて自在に「老秋」とか「老醜」とか「爽鐘」とかにしよう。でも、「老醜」は使うことのないように自戒したいと思う。老いても、なおユーモアの満ち溢れた、明るく爽やかな人生をと・・・。
 巨根大好きのの褌子さんは改名の必要は無いのではと、改名すると「小根」の持ち主になって・・・・???。

痩鐘やせがね・・・いいではないかぴったんこだ

くにかねならず、痩鐘=やせがね。じつにいいペンネームだ。これできまった。これでいい。これでいこう。
氏の日本カモシカみたいにすらりとした渡岸寺の観音様みたいな美しい痩身。奥様を魅了してやまない氏の贅肉も多からず少なからず。弾力がないすじ肉ではあるが枯れた味わいが品よく嫌みというものが全くない。まさに老醜の対極にある痩鐘。名は体をあらわすというがネーミングの妙をこれほど感じたことはない。「褌子」もそろそろ改名しょうかしらん…

さっそく改名・・・猫跨ぎ

爽鐘のやや褒めすぎが気になりしっくり来なかったが、褌子氏のコメントを見ていたら痩鐘に思い至り、何故気が付かなかったと膝を叩いた。「爽鐘」改め「痩鐘」をリコメンドしたい。ぴったりだ。そうしなさい。

爽鐘にそうしよう・・・・褌子

  爽鐘=そうしょう(さわやかな鐘?) うーんそうか、これもいいね。そうしよう。
  氏のさわやかな初老の紳士というイメージがぴったり。半白の無精ヒゲも男が見てもぞくぞくするし、ちょいと頭にのっけた安もんの帽子、小粋なミニリュックもたまらんねえ。
  老秋でなく秋老でもいいし爽鐘でもいい。とにかく本人が勝手に決めてくれ!

2011年8月25日木曜日

処暑だね ・・・猫跨ぎ

  中部大の武田教授が昨日のラジオで、原爆100発分とか言っていた。海の方へ流れて陸地が20%ということなのかよく判らない。また汚染水分が入っているのかどうか。
東大安井教授の使っている公表値(ヨウ素131が2%、セシウム137が0.9%)というのもどういう根拠なのか判らない。

老秋ねえ。まあ、拙句をご記憶いただいたのは光栄で本人がよいのだからいいけれど、御懸念のように漢字変換ですぐ老醜となるのは具合悪くないかい。自戒をこめてかな。
私なら、クニカネを生かしたいね。口癖の「そうかね?」から、「爽鐘」などはどうか。「そうしょう」と呼ぶ。ちょっと名前負けするか。採否はご自由に。

老秋・・・・・・・・褌子

老秋さんおめでとうございます。美しく枯れた感じでとても色っぽい清潔感があり、素敵です。長命をお祈り申し上げます。

思い出した・・・老秋

  そう、思い出した。このホロホロ会のブローグ内容は誰でも見学できることを。但し、書き込みにはパスワードが必要なことを・・・。だから。先週の私の私見が出ようが、「驚いたナーモー」の意見が直ぐ出たりするのも納得した次第。私が計算したその考え方が間違っているとは思っていないので、消去するのは止めにした。今までも、猫跨ぎさんの言うようにちょこちょこ出ていたのだろうと思う。このインターネットの社会では仕方ないことである。でも、実名は止めることにした。で、今後上記の「老秋(老いの秋)」とすることにした。
 出典:数年前のホロホロ会、湖西に行った際に十一観音様を見ていた私の恍惚の姿を詠んだ猫跨ぎさんの句
 「観音の腰に目をやる老いの秋」、この句をカミサンに陶芸家小林さんがいずれ作ってくれる花瓶様骨壷に書いておくれと。寺の娘だったカミさんがいったネ。これでは観音さんが怒って三途の川でアンタは溺れ死ねと、それもカナズチのアンタは海の底の奈落の底で成仏もできず・・・永遠にと。こうすれば助かると寺の娘のカミサンが修正した我辞世の句
 「カミさんの腰に目をやる老いの秋」
三途の川で溺れ死ぬより、彼の岸にたどり着けるのであればと・・・・。「老秋」という爽やかな、静かなる人生というより、何か「老醜」という・・感じの。

RE:驚いたなあモウ・・・・褌子

  『原爆20個分に関する私見』という国兼博士の考察は現在、きわめて明解でわかりやすい!ということで日本中の話題をさらっておる。ぜひ英文でも発表してもらいたい。
  ところが謙虚でつつましい国兼博士は、この画期的な論文を本欄から消去されると宣言している。わたしはただちにコピーさせていただき永久保存の措置をとった次第である。
国兼さんもペンネームを猫跨ぎさんにつけてもらったらどうか。
 私の褌子(こんし)のペンネームの名付け親も猫跨ぎさんで大変感謝している次第である。

2011年8月24日水曜日

よくあります ・・・猫跨ぎ

以前から気が付いていたがgoogleなんかには直ぐ出るね。記事の取捨選択はどうしているのか判らないが、2,3日で検索に引っ掛かることがよくある。どんな仕組みなのかよく判らないが、ちょっと考えれば大変な時代だね。

驚いたナ-モォ・・・国兼

  昨日の新聞で、福島原発からの大気中に放出された放射性物質の総量がヨウ素換算で57万テラベクレルという、原子力研究開発機構の解析結果を元、もう一度広島型原爆何個分かを計算して見た。私なりの考えによるもう少し精緻な計算をしてみたが、どう見ても4個分相当である。
 いったい20個分相当という計算は何処から出たのかと思い、インターネットで「原爆20個分相当」とキーワードを入れたら、何と私がホロホロ会のホームページに1週間ほど前に書いた「原爆20個分相当に関する私見・・・国兼」が出てきたではないか。それも実名入りでね、驚いたね!!いったいこのホロホロ会のホームページ記載内容は外部と連結しているのかと・・・・?褌子さんに連絡したが連絡できず・・・。マァ-、私なりの前提による私見であり間違った考えではないと思ってはいるが・・・。それにしても、うかつな事が書けないのは困るね!!!
 ついでに原爆20個分相当の背景の計算が熱量換算でやっているとは知らなかったネ!!どうやって今回の福島の熱量と広島の原爆の熱量を推定したのだろうか。いずれ調べよう。私のように単純に外部に放出されたセシウムの重量からモル数を計算し、そこから2酸化ウラン(235)の外部に出た崩壊量を計算しないのだろうか???
 いずれにしても実名入りは困るので、ホロホロ会の私が書いた文章は3日後に消去します。

アサガオとミツバチ・・・・褌子

  佐倉歴史民族博物館に紅板染めを見に行った。さらに朝顔展をみる。あさがおは蕣とも書くが、むかし、ほろほろ会で朝顔市で有名な恐れ入谷の鬼子母神を訪ねたときに蕣花の字がよめなかったことを思い出した。アサガオの変種、花や葉っぱをつくることは江戸の町人の大きな楽しみだった。おやこれが本当にアサガオか?と思うような奇妙な葉っぱや花がたくさん並んでいて大いに楽しんだ。【写真】



  きのうは天気になり、ミツバチを飼っている夫婦のところへ、ハチミツ絞りをみにいった。蜜蝋にオリーブ油など様々な天然油をまぜて100%天然由来の肌クリーム(商品名:みつろう美人など)を作っているが、小生は統括製造責任者ということになってでかけていっては新鮮なハチミツをもらっている。
  まず高さ一メートルくらいの巣箱のふたをあけるとわーっとミツバチが襲ってくるが、麻袋みたいなものを燃やして煙をふきかけるとミツバチはすぐおとなしくなってしまう。【写真で右の奥さんが煙をふきかけている】
  厚さ3センチくらいの巣板をひっぱりだして、遠心分離器で蜜をとりだす。


→写真の左がわに黄色の蜜蝋(べーワックス)ができているのがみえる。ハチミツがつまっている六角形もあれば、孵化した幼虫がうごいているのもある。この夫婦からきくミツバチの生態、分封、天敵スズメバチとのたたかいなどの話は実に面白い。

2011年8月22日月曜日

『おじいさんと草原の小学校』・・・褌子

  二三日涼しいのでありがたい。
  東京も涼しかろうと、上野の国立博物館で「孫文と梅屋庄吉」展をみた。そのあと上野駅のパンダ口の例の飲み屋さんでジョッキーでビールを飲みながら『溥儀の最後の忠臣工藤忠』を読んだ。やはりこの店はほろほろ会のめんめんと来て焼き鳥で飲んだ方がいいと思った。それにしても小蔵ひでをさんはこのような安くて小綺麗で駅からちかい飲み屋を発見する天才的な才能の持ち主で本欄をかりてその偉大な業績をたたえて深甚の感謝をもうしあげたい。まあ、いつぞやの鹿児島の赤提灯の色白の百合子ママのようなおかみさんと世間話をしながら飲めばもうもう最高なのだがそんな贅沢はいうまい。
  上野駅もすっかりハイカラになったものだ。一七番線の上越線ではじめて東京にきた私のような田舎ものにとって上野駅は文字通り東京の玄関だが、伊沢八郎の「ああ上野駅」の面影はなくなってきた。
  駅構内の本屋で白川静博士の『字通』『字統』『字訓』をみた。ぜんぶ買うと四万円くらいか。金がないし、リュックサックでもないので諦めた。『字訓』は中国から輸入された漢字にどう日本式の訓読みをあてたかを一字一字、白川博士がうんちくをかたむけて説明してあり、こういうのを独りベッドでぱらぱらめくりながら酒を飲んでいるうちに突然息絶えるのもいいなあと思ったが、やはり重そうなのでやめた。
  そのあと地下鉄銀座線に乗り、三越前で半蔵門線に乗り換えて神保町で下車。佐渡島生まれの田舎ものが江戸の昔から東京を知っているみたいな顔で地下鉄を乗りこなすのである。いまもし巨大地震で電車がとまり停電で真っ暗になったら…と一瞬思ったがそういうことは考えないことにした。ビールのほろ酔いのせいか、
  神保町の岩波ホールで『おじいさんと草原の小学校』をみた。すばらしい映画だ。84才のマルゲじいさん(文盲のケニア独立の闘士。世界最高齢の小学生としてギネスブックにのったそうだ)のように、いつまでもこつこつ勉強しなくてはと決意した。

2011年8月21日日曜日

函館に忍び寄る秋の気配・・・褌子

終戦日叔父のサーベル持て余す
  戦後66年たったという実感あり。叔父さんが職業軍人だったということか
薬莢の六角形や終戦日
  薬莢といっても何のことかわからない青年も多いだろう。
  戦争体験者が急速にいなくなっている。小説書けなくなった都知事が「大臣のくせ  に靖国神社に参拝もしねえようなあ  いつら日本人じゃあねえんだ」などと公言して  いる。侵略戦争だったことを否定する歴史教科書が横浜や大田区などで  も採択されている。あぶない時代になってきている。
晩鐘の海に潜りて星月夜
うらやましい。海に潜ったのはもう何年前のことか思い出せない・
放射能夏の俳句を押しやりて
まったくとんでもないことになった。
西瓜切るパリッと風の抜けにけり
新鮮ないいスイカだ。ぱりっと切ると芳香がたちのぼる。旨そう
汗かいて三枚羽根の回りをり
  夏だな。が盛夏はすぎた感もあり
製氷機カサと音して秋に入る
秋がきているんだ。風のおとにぞおどろかれぬるだな
楷書撥ね草書崩れて秋の声
  撥ねたり崩れたり忙しいがとにかく秋はせまっている
眉唾の怪しい話蚯蚓鳴く
  怪しい話がおおいね。年取ったら気をつけよう。北電から献金受けていた女性知事のもとで泊原発も稼働強行とか。原    発なくても結局猛暑をのりきりつつあるではないか。原発がないとエネルギー不足で企業は海外へと逃亡するというけ    ど、原発が一番稼働していたときにもとっくに企業は海外へ進出していたではないか。円高のほうが深刻。
  時代は急速に新エネルギーによる時代へと突入している。
紙手裏剣残し帰省子飛び去りぬ
むつかしい
海の色気怠さ抜けて夏解かな
  海にも倦怠期があった。

原爆20個分・・・褌子

東大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授が「私たちの計算では広島型原爆20個~30個分の放射性物質が福島第一原発事故で放出された」と語っています。(毎日新聞8月19日)

2011年8月20日土曜日

函館通信150・・・夏解・・・仁兵衛

 猫跨ぎさん、早速の句評有難う御座います。
 「夏解(げあき)」は秋の季語で「夏安居(なつあんご)」の最終日、陰暦7月15日を差します。坊主が一箇所に集まって修行した最後の日にどんな意味があるのかは知らない。夏が終わったの気持ちで使ったが今年は8月14日であり秋を感ぜぬ暑い日であった。

 南方戦線に軍医として参加した20歳上の従兄弟の持ち物が終戦直後まだ実家に残っていた。そのサーベルは小学校1,2年生にとっては重かった印象しか残っていない。
 後は薬莢だ。世田谷の実家には焼夷弾の薬莢がごろごろしていた記憶がある。消火活動に活躍した手押しポンプと共になけなしの私の戦争記憶だ。我々の世代はこんな中途半端な戦争体験とは言えない宙ぶらりんのまま戦後教育に入っていったのだろう。

夏解というのかな・・・猫跨ぎ

昨日の昼の驟雨から空気が入れ替わったみたいで、今日は朝から涼しい。夏も終わりだね。

・終戦日叔父のサーベル持て余す
・薬莢の六角形や終戦日
この六角形の薬莢は旧日本軍のものだろうか。そういえば子供の頃、家には戦争の遺物がなにかしら転がっていたような気がする。それにしてもサーベルは穏やかでない。これはなかなか風化はしないね。
・放射能夏の俳句を押しやりて
まあ実感だね。
考えて見れば、東日本大震災や原発事故、放射能汚染などの一生に一度あるかないかの経験が作句にいささかの影響も与えないとしたら俳句などその人にとって何ほどの意味があるのかと思う。しかし言うは易く行うは、はなはだ難しい。「夏の俳句」はいいとして、この主題は無季でもいいのかもしれない。
・晩鐘の海に潜りて星月夜
・海の色気怠さ抜けて夏解かな
晩鐘が海へ潜るという独特の感覚。星月夜と響き合うということか。諦観の感じが濃いね。
夏解とは初めてだけど、夏終ると解した。
・眉唾の怪しい話蚯蚓鳴く
まあそうだ。そんな話が多い。
・紙手裏剣残し帰省子飛び去りぬ
我が家でも五歳児と二歳児が切れ目なしの運動会を繰り広げ去っていった。これで年頃になると、いっぱし無口を決め込むんだからなあ。

「八月や六日九日十五日」
八月にもの思うこと多しということか。全部一括りにして17音に纏めた工夫を軽いと見るか、せいぜい俳句はそんなものと諒とするかは見る人の判断だろうね。しかしこれも風化の一つかというのが私の感想。

2011年8月19日金曜日

函館通信149・・・俳句の日・・・仁兵衛

 昨日東京の兄に電話したら国兼さんと同じ様に「このくそ暑さは何だ!」と嘆いていた。函館は学校も新学期が始まり、三日程雨が続いたが今日はすっきりとした秋に近づきつつある。
 いわきの友人達は私が函館に引っ越して行ったのを羨ましがっている。こんな事を予測して引っ越した訳では全くないので皮肉なものだ。いわきに限定して暑中見舞いを出したら返事の八割の人が放射能の見えない恐怖感に苛まれていると書いてきた。
 さて、単なる語呂合わせに過ぎないが今日は俳句(8-1-9)の日だそうだ。そう思って近作十句出しました。
 作者は忘れたが最近もっとも気になった句も一緒に揚げておきたい。
 「八月や六日九日十五日」 如何であろうか。俳句になっていないんじゃないかとのご意見も有るかも知れない。

  終戦日叔父のサーベル持て余す
  薬莢の六角形や終戦日
  晩鐘の海に潜りて星月夜
  放射能夏の俳句を押しやりて
  西瓜切るパリッと風の抜けにけり
  汗かいて三枚羽根の回りをり
  製氷機カサと音して秋に入る
  楷書撥ね草書崩れて秋の声
  眉唾の怪しい話蚯蚓鳴く
  紙手裏剣残し帰省子飛び去りぬ
  海の色気怠さ抜けて夏解かな

2011年8月18日木曜日

さすが国兼博士!・・・褌子

国兼発言はいつも緻密な科学的検証をへて慎重に発言されるので心から敬服しております。
科学者たるものこうでなくっちゃ! やっぱり有機一発で合格するやつはちがうなあ。

原爆20個分に関する私見・・国兼

1週間ほど前の天声人語に広島型原爆20個相当という記事を読みオヤ?と。以前猫跨ぎさんの書いた記事(7/9)を再度検討した。そのときの安井先生の試算による今回の大気中に放出されたヨウ素131の量:28.3g、セシウム137の量:1900gという数値から広島型原爆の2個分相当と思っていた(核崩壊してセシウムやヨウ素に変化したウラン235の量が約2kg、一方広島型原爆で超臨界核崩壊した実際のウラン235の量は1kgという。このウラン235の量から2個分と推定したわけ。多分、広島型原爆何個分という比較は核崩壊した実際のウラン235の量の単純な比較だと思う)。安井先生の計算根拠であるヨウ素、セシウムの原子炉内からの大気中への排出濃度(ヨウ素2%、セシウム0.9%)がどの程度の正確さかによって広島型原発何個分の数値が変わる。最近の乾燥牧草による牛の汚染の広がりを見るとセシウムはもっと多く大気中に排出されているのかもしれない。

 ついでに原発1基が1000発分の原爆量に関して。
100万KWぐらいの標準的原発1基の中に主として2酸化ウラン(235)と2酸化ウラン(238)(その他僅かな減衰材も含まれているらしいが)からなる約100トンが内蔵されている(直系1cm,高さ1cmの上記2酸化ウランのペレット(2酸化ウランの比重11から1個のペレットの重さ7.7g)が4mの燃料棒に400個、重さにして3.1kg、この燃料棒が50個-60個集まって一集合体を形成し、この集合体が500個-600個ぐらい集まって原発1基が出来上がるという計算。)。この100トンのうち核分裂する2酸化ウラン(235)の濃度は3.5%程度。この100トンの中で年間30トンぐらいがエネルギーとして使われ、このうちの3.5%の約1トン(1000kg)の2酸化ウラン(235)が核崩壊して核分裂生成物を作る計算になる。先の広島型原爆の1000発分に匹敵する。

 原発論議も良いが、今年の夏は、何だこの暑さは!!!ちょっと異状だネ。ゴ-ヤ植えたり節電に心がけてはいるが・・・。明日からこの暑さの峠も越えそうだ。皆さんも今日1日気をつけよう。

2011年8月17日水曜日

どっかでみた。思い出してみる・・・褌子

なんでみたのかな。週刊誌だったか新聞だったか忘れたが確かに広島型原爆20個分とあったのを読んだというか見た。でも最近、このはなし出回っているよ。
ところで空中や海中に漏れ出した放射能物質は、福島第一原発三基が蓄積していた放射能物資の1~2%というのもどうしてわかるんだろうね。100万キロワットの原発一基が一年間に製造する放射性物資は広島型原爆1000発といわれているのもおおざっぱな数字だ。
福島第一原発の営業運転開始は1971年3月。ことしの3月11日まで41年間。三基あわせて202万キロワットの発電力の原発だから、一年に広島型原爆2020発分。かける×41年=82820発分の放射性物質がたまっていたことになる。
そのうち1%の放射性物質が漏洩したとするだけで原爆828発分、2%で1635発分の放射性物質漏洩ということになる。そうすると広島型原爆20個分ともずいぶんちがってくる。まあ年中、故障したり定期研修したりしているから稼働率半分としても話があわない。
とにかくすっごくたくさんおっそろしい放射能がもれたのだけは間違いない!!

で、よくわからん・・・・逸徳

その広島原爆20個分の放射能という話だが、この数字はいろんなところでよくでてくる。しかし、考えてみるとこれよくわからん。いったい20個分の放射性物質が出たというのか。いったい核種はなになんだ。だいたい核爆発のあとの放射性核種と、福島のようなケースの核種では同じではないのではないか。広島の何と福島の何を比べているのだろうか。あるいはベクレル単位で比べているのか。出典はなにか。いくら調べてもいいだした人がわからん。こういう情報、特に20発分という数字だけがひろがっているのは、ちと心配。一種の都市伝説なのだろうか。社会心理学では、こういう場合「確証バイアス」といって、悪い情報だけがひとりあるきしてしまうのを、一種の認知のゆがみととらえる。褌子さん、でどころがわかったら教えてちょうだい。

2011年8月16日火曜日

ここらたで ・・・猫跨ぎ

特に申し上げることもない。私は個々の事例を分けて考えたいというか、そういう癖がある。褌子氏は一挙にすべてを曼荼羅図のように展開するね。ある確かな世界があってそれは揺るぎない。それはそれで結構ではないだろうか。この辺で幕引きとしよう。

またすれ違いかな?   褌子

  戦争も原発事故もそうだが、社会現象の歴史的評価は一番ひどい目にあった人びとの立場に少しでも接近したほうが大きな判断ミスをおかさないのではないか。
  聖戦神話や原発安全神話をふりまいた者にたいして、事後であっても、怨嗟の声をあげている被害者の前では言えないような言葉なんて無力ではないか。
  ましてや「汝罪なきものは石でぶて」などと下賤な姦淫の罪などとごっちゃにされて「皆の衆、いままで原発の恩恵に浴していただろうに手のひら返して原発文化人などとは卑しいとは思わんかい」と高いところからいわれても。
  私はといえば、ずっと核兵器廃絶運動もやってきたから原爆の恐ろしい体験談はずいぶんきいてきたし、原発が人類にはまだ技術的に手に負えないものらしいという知識はあった。が、内心、核兵器はだめだが温暖化問題を考えると原発は必要悪かもしれんなあ…と思っていた。
  しかし、いま原発がこれほど恐ろしいものだとは知らなかったという自分の不明を恥じている。
  百万キロワットの原発一基で年に広島型原爆1000個分もの放射能物質をためこむとは。福島第一原発三基から放出された放射能物質はほんの1~2%に過ぎないというのに、これだけで原爆20個分の放射能に相当するとは。
  まさに猫跨ぎ氏のいうごとく人間は経験して学ぶ動物だから、私はいま心底、原発はなくさなくてはと確信し署名運動に猛暑がすぎたら街頭に立つつもり。もうすぐ借り物だが八万円の線量計も手にして駅頭に立つことになる。

断片的ながら・・・猫跨ぎ

  ちょっと投句の期限が来ているので、断片的な投稿だが。
原発で帰れない被災者とか原爆で焼けただれた少女を例にとって、よくも無慈悲な事がいえるな、と来る。こういう例えは相手を黙らせるときよく使われる手だ。よくない。こういう人々は先ずもって十分なケアをする。人間として当たり前でないか。

この前の津波で女川原発敷地が避難場所に指定された。福島は地獄でここは避難所だった。何故だ。あまり感情的にならずきちんと分析することが科学者じゃないか。
だから、あながちビートたけしは間違いではない。ところで東電から大金を貰ってとよく言うが、彼は如何ほどもらっていたのか。

小林秀雄がどう言ったかはどうでもいいが、先の大戦の原因について、私の最大の関心は何でずるずる始めてしまったかだ。これは今後の参考になる。開戦前、政府は各省の若手官僚を集めて日米もし闘わばのシミュレーションをやったという。何度やっても国力の差は如何ともし難い結論ばかり。東条英機はオブザーバーで熱心に聞いており、ときどきメモを取っていたとか。
しかし、客観的な検討結果よりも結局、「空気」というしかない開戦の決定。いまでもこの意志決定は色んなところで見られる。

ちょいと前に戻るが・・・・  褌子

  大金もらって原発安全神話をふりまいてきた罪深い文化人を荒っぽく告発した佐高信の本を紹介したら、「水に落ちた犬はたたけ」と反応するかと思ったら「罪なき者は石をなげうて」と猫跨ぎさんが書く。こういう反応は不思議。
 放射能で生きているうちに故郷に帰れない人びとの面前で「罪なき者は石をなげうて」といえるのかどうか。
 敗戦後にも、こういう反応があったそうだ。
 小林秀雄は1946年「近代文学」二月号の座談会でこんなことをいっているという。
―――――僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わったときには、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろうという議論が起きる。必然というものに対する人間のはかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起こったか、それさえなければ起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省しない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
 小林秀雄のいう“無智だから反省しない”という無智とはどういう意味かわからないが、原爆で焼けただれた少女の前でこんなことが言えるかどうか。こういう理屈に当時の戦犯達は喝采を送ったにちがいない。
聖戦だと騒いでいた連中が負けたとたんに民主主義者に変身したのを皮肉っているのならはっきりそういえばいい。「悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」とは悧巧ぶったいいざまだ。
 息子を戦死させて「軍部にだまされた」という国民に、「勝った勝ったと提灯行列していたときに戦争反対で獄死した日本人もいたんだ。“だまされた”という戦争責任もあるんだ」と映画監督伊丹萬作(1900~1946)は喝破した。
 もちろん私は原発から避難している人びとに「おかみと東電にだまされた責任もあるんだ」とはいえない。だました方が断然悪いに決まっている。地震が来たら原発に逃げ込めばいい(ビートたけし)などと東電の金でテレビでしゃべりちらしていた連中も罪深い。やはり水に落ちた犬は打つしかない。

2011年8月15日月曜日

鈍感さ・・・猫跨ぎ

別段今までの日本の有り様が予定調和的に上手く行ったなどとは少しも思わない。高度成長の陰でかけがえのない国土の風景が失われたのは無惨なことだった。二度と失敗は繰り返してはならない。
ただ漠然と思うのだが、人間は経験をしないと判らない生き物だ。
「三四郎」のなかで広田先生が食べさしの辨当をそのまま汽車の窓から外へ放り出すシーンがあった。今の我々はぎょっとするが当時は当たり前の習慣だったのだろう。
チッソ水俣で、排水を垂れ流したにもこれと似た位相を見る。海での拡散という昔ながらの神話を信じていた。有毒だと知っていたのにという責めを受ける。時系列的に事柄を並べるとぐうの音も出ない。出ないが、習慣でやってしまうという鈍感さが命取りになった。経済性を追求する余り処理を怠ったといえばその通りなのだろうが、ちょっと違う位相を見る。環境学が緻密になり、公害規制が整備される前の話だ。
当時の日本の10%超の経済成長の陰の部分と言えるだろう。今度の新幹線事故などを見ていると、中国の高度成長の陰に起こっているに違いないすさまじい事柄を想像する。日本のようなブレーキをかける契機が余りに脆弱だ。

2011年8月13日土曜日

産業構造 ・・・猫跨ぎ

  話を拡散させないでおこう。石炭が石油になるのは必然だったのか。だったら石炭産業を計画的に海外巨大資本が抹殺したみたいな言い方は止めるべきだ。そしてそれはどんなプロセスで移行したら理想的だったのかな。ちょっと教えて欲しい。
  産業構造の歴史的大転換だった。それは大きな犠牲があった。一見経済原則のみが剥き出しになっているように見える。個別に十分な対応は行われねばならないのはいうまでもないが、傷跡は残る。私の勤め先にも、砂川や美唄から離職した人が10名ほどいた。あの頃、全産業的に受け入れが行われたはずだ。

それにしても褌子氏の身の軽さはどうだ。今様の天狗のようだね。

ちと話がずれてきたかな・・・・逸徳

いやいや、石炭が石油に勝ったらいいなんてことをいったつもりはないんだが。もちろん石油が主役になることは必然だったのだろう。 ちと話がずれたかな。 つまりいいたいことはこういうことだ。歴史にイフをいってもしょうがないが、もし歴史から学ぶことがあるとすれば、それぞれの時点で考慮されなかった、あるいはほとんど影響を及ぼさなかったようなベクトルが、もしきちんと考えられていたのなら、すこしは今の状況は違っていたのではないかという気がしているのである。結果としての歴史の方向はさまざまなベクトルの合成なのだろうから。

たとえば、なぜ70年代の公害があれほど日本に集中していたのか。経済学のなかに環境という要因があまりにもはいっていなかったのだろうということは前にも述べた気がするのだが、結局は最大利潤の追求というベクトルのみで、それを修正していく要素がすくなかったからだと思う。そして、科学技術のありかたは、明らかにそれに影響された。宇井純で有名な東大工学部には、そもそも環境という観点の研究者が絶望的なほどいなかったので、(そんなことはどうでもいいという意識だったのだろう) 宇井さんが遂に一助手で終わったのは有名な話だ。それがわかり、環境のための科学技術が進歩して世界一のレベルになったのはよかったが、そういうことがわかるまでに我が国はなんと多くの代償をはらったのだろう。日本カナリア論なんていうのもあったなあ。

 ものごとが、経済原則だけで考えてはならないだろうということは、たとえばこれからの日本の農業を考えればわかる。経済原理だけで考えれば、日本農業は崩壊していくことになるだろう。それでいいか。
簡単にいえば、おかねもうけ第一の考えがじわりと、戦後史のいろんなところで、その汚染をひろげてきた、ということにきちんと気が付くことが、歴史に学ぶことだろう。そんな気がする。

八ヶ岳は涼しかった・・・褌子

   ひさしぶりにパソコンみたら、盛り上がっているね。
―――――奥秩父と山梨の県境の国師ケ岳(2601㍍)というところに登った。大弛峠からほんのちょっと登るだけなのに心臓がばたばたして困った。山頂に巨石をもつ金峰山が目の前。登山道わきで杉の巨木をみつけた。
 麓の塩山市から自転車で男女四人が2400㍍の大弛峠まで登ってきた。イタリア製の100万円以上する高級自転車で重さ4キログラム、フレームは東レの炭素繊維だそうだ。公開されたボーイングの新型787も炭素繊維の機体。






 夜は鼓川温泉の奥の築140年の大地主の館に泊まった。
 山菜の天ぷらでビールを飲みながらきいた80才過ぎのおかみさんの話。
 戦争が終わってからこの旧家にお嫁にきた。農地改革で田んぼは小作人にとられたが山林だけが助かった。この山林の木も寄付して立派な村道ができて、お祖父さんの顕彰碑が建立された。けっきょく山城みたいな石垣のうえの千坪の屋敷だけが残った。建物は村の文化財になり、村のすすめで民宿をやっている。宿帳をみたら一ヶ月に数人しか泊まってない月もある。日本庭園がみごとなので、ほろほろ会でここで幹事会や句会でもやるのも面白そう。
 翌日は八ヶ岳高原の別荘に住んでいるご夫婦のところに泊めてもらった。ご主人が物理の先生だったので山本三三三先生、岡小天先生の懐かしい名前がとびだした。釜無川でハヤを2匹釣ったあと、夜のバーベキュで諏訪大社と諏訪族、安曇族のはなしで盛り上がった。
 八ヶ岳自然文化園でハヤブサの遙かなる宇宙の旅をプラネタリウムでみた。小惑星イトカワは大型タンカーくらいの大きさで迫力満点の映像。蕎麦畑の向こうの八ヶ岳、南アルプスと奥秩父のあいだに富士もそびえている。
―――――
 数日、天国で遊んで、中央高速を下界にもどるとむっとする熱さ。
 四日ぶりにパソコンを開くと戦後エネルギー革命について猫跨ぎ氏・逸徳氏の議論で盛り上がっていて現実世界にひきもどされた。

【写真:大杉・百万円の自転車・蕎麦畑のむこうの八ヶ岳】

2011年8月12日金曜日

話を進めようや・・・猫跨ぎ

判った。民族石炭資本がアメリカ石油資本に辛くも勝利し日本から彼等を排除していたらどんな産業社会になっていたかをちょっとイメージしよう。海岸にコンビナートはなく白砂青松であり続けたろう。これは結構だ。多分自動車産業は興らなかった。随って鉄鋼産業も小さなものだ。要するにみな連関しあっているからね。それも結構か。それでどうなる。それの格好な例がある。北朝鮮だ。
アメリカでも巨大資本でも何でもいいが、彼等を排除した時どうなったのか具体的イメージを出してくれないとなあ。
戦争に負けて彼我の技術、国力の圧倒的な差に茫然とし、しかし一億は食っていかねばならぬ。奴らの股を潜って恥をかかされ続けたわけだ。敗戦はまだ続いている。
とにかく対案を出してくれないと、御説には永久に納得出来ないね。
まずは、石炭立国論を聞かせて貰おう。

いやいや・・・・逸徳

陰謀というと、時代劇で悪代官が「越後屋・・・・おぬしも悪るよのう・・・・ムフフフ」という光景とか、ウォーターゲート事件みたいに、暗い部屋に人相の悪い男が数人あつまり、どういうわけか中にひとりだけは太った男がいて葉巻なんか燻らして、ひそひそと話している光景が目にうかぶ。だが、前述の戦後史の曲り角なんか、そういう陰の謀(はかりごと)なんか、実はほとんどないーと思っている。白日のもとで、堂々と資本は効率的に最大利潤を追求しており、その結果としてこういう時点にわれわれはたどりついているのだからたちが悪いのである。ちなみにアメリカという力があるのではない。アメリカをも支配している巨大資本があるのだろう。(最近、文化的にも政治的にも本当にアメリカという国があるのかと感じることがある。アメリカとはきわめて観念的な存在ではないだろうか。だからこそ、アメリカの結合をいいつづけないとアメリカは崩壊するのではないだろうか。ユナイテッドステーツという言葉が意味深いと思う)どうもそうみえてしょうがない。ウォール街という力のうごめきの上にワシントンという虚構の劇場のドラマが進んでいるように感じる。だから、陰謀ということばはあまりいただけないと、正直思う。アメリカの陰謀というラベルをはるのは、よほど観念的なやつだ。事実の追求と、客観的分析の姿勢が大事だ・・・と思うが、どこまでやれるか自信はぜんぜんない。とにかく、ことばはこわい。そのことばを使うと何かみえたように錯覚してしまうのだから。

 石炭と石油の転換点は、我々が大学にはいったころであるが、ひとことでいえば、民族エネルギー資本と、国際的石油独占資本のたたかいだったのだろう。第一段階に民族資本の水力発電との協調の試みがあった。このころ佐久間ダムがつくられる。だがこれは、石油資本の価格攻勢でふっとぶ。エネルギーの問題はコストだけで考えられないといいつづけたのは、電力の鬼といわれた松永安左衛門であると記憶している。そして価格攻勢で石炭産業がとどめをさされ、日本が石油に完全に支配されて、その独占的価格支配の軍門に下るのは50年代当初だろう。このような、安値攻勢やそのほかの戦術で対抗馬を完全にぶちこわしておいてから、市場を支配するやりかたは20世紀初頭の自動車産業と鉄道会社の競争にも例がみられる。ちなみに、このような石炭と石油のたたかいの構図をおいらにはじめて語ってくれたのは、大学1年の冬に旅にでて、偶然一晩とめてくれた美唄の1炭鉱労働者であった。目からうろこという感じで、とりはだがたつような感動をしたのをおぼえている。青春の思い出である。

 世界最初の原発は1954年ソビエトのオブニンスク発電所である。この年、世界最初の原潜ノーティラス号が進水している。原発という平和利用において先を越されたアメリカは相当あせったらしい。そこで1957年シッピングボート原子力発電所を建設するが、これは加圧水型ということで、原潜と同じ形式、というより二隻目の原潜の技術をそのまま陸揚げするしか、アメリカにはソビエトにおいつくすべがなかったのだろう。したがって、アメリカの原発の技術はそのDNAにおいて、色濃く軍事の技術の影響(ということは、環境や安全性は二の次)を受け、その主役がウエスチングハウスであり、これは福井原発につながる。一方それとジェネラルエレクトリックをくらべ、後者からコピーのように原発技術を輸入したのが東電であり、その技術的な流れの下流に今の保安院の技術者たちがいる。だって福島1号機が動きだしたころ、保安院なんてかげも形もなかったもんね。だから、保安院が東電を調べるのは、外様大名ぐらいが江戸城にのりこむようなもんで、まともにやれるわけがないとおいらに慨嘆したのは、中電浜岡原発の技術屋である。 ああ、もう何をかいわんや。


2011年8月10日水曜日

資本主義社会・・・猫跨ぎ

  資本主義社会だから儲けて何が悪いってこれまた粗雑な括りだ。マルクスがいた頃のイギリスの世相だろう。そういえば、ライブドア事件のころ名を馳せた村上ファンドの村上が裁判で、金儲けして何が悪いんでしょうかと真顔で聞いていたとか。彼はあらかたあぶく銭を吐き出させられた。
  石炭から石油への転換がアメリカ資本の陰謀か。またまた陰謀説だな。アメリカの余剰農産物を日本人に食わせるために、給食にパンを出させ、教育したのもアメリカの陰謀という話があった。知らなかったね。原発のルーツは原子力潜水艦の転用か。これもアメリカの陰謀か。そういう事例があったということだろう。戦後の不可解な事件はみなアメリカの陰謀みたいな松本清張を思わせる。一度きちんと仕分けが必要ではないか。
  福島原発の危険をあれだけいっていたじゃないか、それを「金儲け」の為に、言を左右してやらなかったのは万死に値する。首根っこに石付けて溺れさせても飽きたらぬわ、といいたいのか。
そのうちに「畑村レポート」とか色々出るだろう。それを待ってはどうか。新潟県知事の方が余程冷静だぞ。貞観地震って知っていた人は何人いるのかな。真底危機感をもって。今になって、みなとっくに前から知っていたみたいな顔をしているが。
 東電はぼろぼろになって事実上国の管理会社になっている。言うような巨大電力コンツェルンじゃなかったのではないか。

ではもう一言・・・逸徳

わかいなあ。こういう論争やってること自体、あと1.2年で70とは思えん。まあ頭の柔軟体操ということで。

人民裁判ということばについて。いいたかったことはわかるが、これは敗北しつつある支配者側の悲鳴みたいなことばで、一般大衆から出てきたことばにはみえんので、このことば自体使い方によってはアンフェアになるということをいいたかったまで。

原発が、利潤追求の資本家、権力者の産物というくくりは、そんなに単純ではないだろう。やや粗雑ではないかい。戦後の日本エネルギー史をみてみると、いくつかの曲がり角があるように思う。昭和40年代に日本の石炭エネルギー(日本の石炭埋蔵量はフランスより多い)が国際的な石油資本によってうちたおされていった経過や、電気事業法の成立過程における電力資本の暗躍、その結果としての電力帝国ともいうべき、影の権力の成立、そして原発そのものが軍事と密接な関係をもっていること(ちなみにアメリカ最初の原発はソビエトに対抗しようとして、原子力潜水艦の技術をそのまま陸揚げしたものだというのは、よく知られたエピソードだ。) それぞれの曲がり角における資本の行動をみていると、それはさまざまなベクトルがからみあってきわめて複雑なのだが、資本主義社会だからといって、その行動がしょうがないといいきれるものばかりではない。つまり、露骨な利潤追求のベクトルがあまりにもはっきりと見えてくるのだ。そのような流れにのみこまれて、科学技術者たちのいきついた先が福島ではないか。前から、いくつもの技術的問題が指摘されていても、それを取り上げなかったのはきれいごとをいっても、まさに「もうけがへる」からだろう。その結果については、責任をとってもらおうといいたい。そして、そういうひとたちは、これからの社会の方向を選択決定する過程からは、すみやかに退場してもらいたい。だから、二度とでてこれないように、徹底的にたたいておきたい。みずに落ちた犬をたたくどころではない。こちらとしては首におもりもつけたいのである。

さらにいえば、原発の高濃度放射性廃棄物を地中に保管するといったって、10万年の安全を議論する能力がわずか数千年の人間の科学にあるのか。それがあるというのなら、それは欺瞞傲慢な反道徳的行為にみえる。それはもはや科学の世界ではなく、一種の宗教になってしまう。

先日ある経済番組で、なかなか就職できない若者や、主婦たちにまざって、どっかの新興資本の社長が出てきて討論をしていたのをみていたが、小泉以来の規制緩和の流れのなかで、みんなの給料はどれだけあがったのかという若者の声にたいして、「資本主義だからもうけてなにがわるい」といいはなった社長がいた。こういうのはむかつく。品がない。資本主義だからというせりふがとおるのなら、じゃあ貧乏人はテロでも革命でもやらしてもらうということになる。そこからは、何の希望もうまれない。

原発が宗教戦争ということについて。科学的という仮面をかぶりながら、相手のいうことをきちんとききもしないでわあわあと非生産的な言葉の戦争をつづける状況をいいたかったので、まあ「神学論争」といってもいい。
 罪なき者ということについて。原発のシステムからぬけだせない社会をつくっておいて、その中で生きざるをえない一般民衆に「お前も共犯」だなんていいかたをしているのではないと思うが、一般民衆の責任なんていうことをいうと、敗戦後の一億総ざんげということばを思い出す。そういうのは願い下げだ。たとえばだ。福島10キロ圏から脱出した、あどけない幼稚園児は、まさに罪なき者だろう。高木仁三郎さんなんかもそう思う。

ちなみにここでの罪という言葉の解釈はいろいろあるみたいよ。聖書のエピソードは知っていたが、あの話どおりの意味だけではないのではないか。興味があるので現在知り合いの牧師に質問中。結果がわかったら報告するる

2011年8月8日月曜日

罪なきものⅡ ・・・猫跨ぎ

おや、珍しい。いきなり物陰から現れ、驚くではないかい。 
人民裁判はいささか粗雑であった。言いたいことは衆をもって少数派(いまや)を叩く卑しさを言ったまでだ。或る歴史観にたてば正義の側の若干の過剰な懲罰は許されるということだろう。しかし多勢を頼んだ人間の卑しさはいつまでも残る。
  「罪なきもの、石をなげうて」の罪は原罪ではない。パリサイ人が姦淫を犯した女を引き出し、イエスに問うた。さあ、この女を打擲せよ。モーゼの律法を犯したのだから。さあどうする、イエスよ。イエスの返答は、君らのうちで真っさらで間違いは一切やっておりません、てな奴が先ず打ちなさい。史上最も鮮やかな切り返し。大した役者だ。
原発について真っさらかな。真っさらだと言い張るならよかろう。打ちなさい。
権力側、利潤を追求する企業が推し進めた原発だ、中曽根がアメリカのいいなりになって始めたのだ。我々は被害者だ、真っさらだ、云々。よかろう、打ちなさい。
  原発はいま世界中に何基あるのかな。一種の文明現象だ。それを前提として産業が、つまり国のなりわいが行われてきた。最近は温暖化を防ぐ切り札と目されてきた。日本の資本家、中曽根がどうしたの話ではない。日本は資本主義社会だから原発の周りに色んな会社が蝟集するのはあたりまえだ。それを利益を分け合う醜い集合体てな括りをすると話はあらぬ方へ行ってしまう。

いずれにせよ日本はいま重大な激動期を迎えようとしている。おおきな対価を払わねば社会は変わらないということか。と思うと、今日のニュースに福島の事故以降、世界で初めて中国の新原発が商業運転を開始したと言う。もうここは止まらない。どうする。
  「原発は宗教戦争」はいつ誰が言い出したのか。ただ、小生の倫理の立場から参画出来るかも知れない。永久に終わらない、血を見るとか、パレスチナみたいにならないようにしたいものだ。
  「水に落ちた犬は叩け」は相当に粗雑だ。魯迅がこの言葉を言った背景は当欄でも話題になったが、魯迅大先生だから何でも頂戴することはあるまい。実に粗雑な言葉だ。


おひさしぶりで・・・・逸徳

暑いですなあ。セミが復活してうるさい。泣き声が「アツアツアツアツ・・・」と聞こえる。まあ、世の中気持ちの悪いことばかりだが、せめて心のバランスをとって、のんびりいきたい。今年の夏で69である。厚生省の簡易生命表をみたら余命15年弱。まあ、自由に動けてあと10年だろう。で、できるだけ怒らないことにした。怒りの感情は、生理的には棺桶のくぎ1本にあたるとのたまわったやつがいたが。 だいたい、周辺の雑事で怒って解決することはあんまりない。損するだけだ。

浜岡原発に関連して、地域の学習会などで話をたのまれているので、最近低線量の被曝について、何本か専門家の論文を読んでみた。ICRPの報告もみてみたが、つくづく英語力が低下しているなあと痛感。確かに知っている単語だと思うが、意味がぱっとでてこない。老化だなあ・・・・

つくづく思ったこと。どんな分野でもそうであるのかもしれないが、ある科学的結論を導くのに、その導出過程、計算過程において多くの条件の仮定がおこなわれている。ということは、その仮定の妥当性が問題になるのだが、もしも仮定条件を変えれば、結論そのものが大きく変化してしまう。そうすると、どういう立場や考え方で、その仮定をおこなっているかが問題になる。よくいう話だが、ボトルに酒が半分はいっているとき、半分という客観的な事実に対して、「まだ半分ある」というか「まだ半分ある」というのは、その人のものの見方、立場の表明だろう。どうも条件の仮定にはそういう要素があるのではないか。何本かの専門家の論文を読んでばくぜんとそういう感じをもった。 そこでこういうことになる。 専門家の科学的結論と称するものは、数学のような客観的なものを完全にもっているとはいいがたいことがある。「科学的」ということば自体に、ちと疑いを持っていたほうがいいのかもしれない。 つまり科学的議論というものは一種の二階建てになっているのだろう。一階は、だれも否定できない科学的な事実。いうなれば測定値のかたまりだ。これから結論を導出するプロセスが二階であるが、そこに多分に雑音がはいる。もっといってしまえば、科学者の思想的、あるいは哲学的立場である。科学とは直接的関係のない信念や、社会的な圧力で影響される立場である。しかも困ったことに、どうも科学者自身にそのことがよく自覚されていないようにみえる。哲学的には、ぼんぼんである。 その結果として、出てきた結論をめぐる批判と反批判、論争の世界は、一種の宗教戦争の様相をおびてくる。つまり価値中立的な「科学的結論」なるものが成り立ちうるのがなかなか困難になってくる。 低線量の確率的影響をめぐる議論にはそういうムードを感じてしまう。

したがって、以前にお師匠がのべられていたように、倫理的とか道徳的議論がどうしても必要なのだが、これはあんまり自然科学者は得意でないみたいだ。(だからデカルトを原語で読破していた中川先生なんて、一種の突然変異かもしれん。すごいなあ。)

ひとつお師匠にご意見を。「人民裁判」ということばは、どうもあまりおすすめできない。これ革命時の大衆の集団ヒステリーをさしたり、権力闘争の道具に人民のヒステリーを利用したときのことをさしたりすることに多用されてきたのだろうが、見方を変えると今の裁判員制度だって一種の人民裁判である。それにだいたいこの言葉は、革命でやられちゃう権力者につらなる、支配層の側がつかっているのがほとんどだろう。この陰には「大衆はバカだ」という偏見と、革命への恐怖感があったのだろう。 それに革命時の大衆の行動をこのことばで批判するのならば、そのまえにある膨大な権力者の大衆支配と、そこでながされた血に対しては、何と批判したらいいのか。残念ながら、民衆はそういうことばすら持ちえなかったのではないか。 人民裁判ということばの生まれた状況の対極の状況を考えないと、あまりフェアなことばとはいえないという気がする。 それにさあ。「罪なきもの、石をなげうて」といっても、ここでいう原発批判と、罪なきものでいう人間の原罪とは、次元がちがわないだろうか。原発でいえば、罪なきものはいるのである。彼らは石をなげる資格があるといっていいのではないか。で、原発をめぐる議論が、一種の宗教戦争の様相をおびるのならば、戦争は勝たなくてはならないのである。つまり相手をこてんこてんにしておくことは、原発の本質的非道徳性からみれば、まことに必要である。 やっぱり「水に落ちた犬はうっておく」ことをおいらも希望する。

2011年8月7日日曜日

罪なきもの ・・・猫跨ぎ

  佐高信のこの実名断罪は大分前私も当欄で紹介したはず。程度の低い人民裁判だ。3.11の前、世論調査では原発容認は過半数を越えていた。ここのリスト以外に容認の人は五万といるはず。かくいう私もそうだ。今になってそら見たことかと断罪する。気分が悪いね。ああそうかい、あんたは偉かったね、てなとこだ。
世の大勢がそちらへ流れたとき雪崩をうって、断罪にまわる。卑しい。
そして、かつての容認派を黙らせる。いま、そういう仕掛けの意図は何だ?そこが知りたい。

「罪なき者は、石をなげうて」

セミがないていた・・・褌

  きのう南千葉サーキットの騒音被害者の会というところに顔をだして看板づくりをしていたら、ちかくの木でアブラゼミが元気なく泣いていた。セミが鳴くというより泣くという感じ。
  テレビの原発宣伝コマーシャルに一回出ると東電のばあいは五百万円が相場だったそうだ。え、ほんと。
  いま「原発文化人50人斬り」佐高信 毎日新聞社などの本が売れている。
  ちなみにインターネットから50人をコピーして列挙する。
  なんでことひとが?とか、どうみても文化人ではないが?というひともいるが、ああやっぱりというひとが多い。
  茂木健一郎とか養老孟司とか吉村作治とか、テレビや雑誌に出る時間がいそがしくて研究する時間があるのかなあと・・・不思議に思っていた。
・・・・・・
中曽根康弘 梅原猛 斑目春樹 ビートたけし 吉本隆明 渡部恒三 大前研一 堺屋太一 清水正孝 弘兼憲史 与謝野馨 幸田真音 勝間和代 星野仙一 小沢遼子 蟹瀬誠一 山折哲雄 小佐古敏荘 岡江久美子 浅草キッド 茂木健一郎 中畑清 大熊由起子 田原総一朗 アントニオ猪木 金美齢 田中知 荻野アンナ 薬丸裕英 福澤朗 松本零士 藤沢久実 関村直人 大宅映子 草野仁 養老孟司 福島敦子 北野大 三宅久之 木場弘子 岸本葉子 中島健 豊田有恒 鈴木篤之 住田裕子 西山英彦 渡瀬恒彦 吉村作治 近藤駿介 小宮山宏


2011年8月4日木曜日

セミが鳴かない・・・褌子

山寺の蝉でそんな論争があったのか
ことしは蝉がぜんぜん鳴かないとおもいませんか。
近所の森のなかでレストランやっているひとは「クワガタやカブトムシがぜんぜん今年は飛んでこない。不気味だなあ…」といっていた。
先日、原発学習会で不思議におもっていたことを質問した。
メルトダウンして圧力容器の底に(猫跨ぎ氏の表現ではウンコ状に)たまっているのになんで再臨界がおきないんですか?
答えは「制御棒も溶けて一緒に混じっているからです」
―――――そういうことだったのか

そういえば ・・・猫跨ぎ

  去年の出雲、石見銀山行はなかなかイメージが固まらず、ちょっと手間取った様に記憶する。(但し中味は濃かった。)今回のホロホロ会旅行は、この段階で細部まではっきりしたのは結構だ。私らしき男前の俳人が写っていたとか、実は新潟以北の日本海側はまだ私には未踏の地なのです。米沢までは何回か行ったけれどとんぼ返り。
  今回、芭蕉ゆかりの地を訪れ、藤澤周平文学の匂いを味わい、かつ酒田を尋ねるのは意義深い。酒田はいいところだと知人から聞かされていたから。
山寺か。前から一度行きたかった。そういえば羽黒山の五重塔は明治の廃仏毀釈のときに取り壊される寸前だったとか。村人が仏像を何かの神像に置き換えて難を逃れたとか聞いた。まあ、いろいろ見所があるね。

山寺・・・国兼

先日(2日)ホロホロ会の今年度の旅行先を話し合い、山形県の山寺や出羽三山等に行こうと決まった。美味しいお酒を飲んだ後、家に帰り夕刊を見たら不思議なことに山寺の記事が半ページに渡って写真入で記載されていた。事前知識として簡単に紹介しておこう。

 この山寺は正式には宝珠山立石寺(天台宗、860年開基)といい、奥の院まで行くのに千段ほどの石段を上る必要がある(私は3年ほど前に上ったが、結構ハードな石段である。行く前に足腰を鍛えておこう)。途中に芭蕉蝉塚がある。
 新聞によると昭和のはじめ、芭蕉の詠んだこの蝉の正体について斉藤茂吉と小宮豊隆の間で論争があったという。茂吉は「油蝉」、豊隆は「ニイニイ蝉」だと。実際に蝉を採取して調べたところ、 大部分がニイニイ蝉で茂吉も豊隆説を認めたという。ただ、山形昆虫同好会によると、芭蕉がここを訪れた7月13日(新暦)頃はニイニイ蝉 とヒグラシが鳴くらしく、ヒグラシの可能性もあるという。
 山門の入り口には立石寺の宝物を展示した記念館もあった(常時開館しているかは不明)。この近くには「山寺芭蕉記念館」もあり、芭蕉の遺墨や直筆の作品が展示されているらしい。
 新聞の写真を見て驚いたのは、五大堂で野球帽みたいな帽子をかぶり、俳句を詠んでいる人物の一人が猫跨さんそっくりな感じで、既に訪れていたのかと・・・? 旅行予定の10月というと蝉の時期も過ぎてしまうが、山々に囲まれたこの絶景の風景を見ながら、秀句が生まれそうな予感がする。

2011年8月1日月曜日

天皇制・・・猫跨ぎ

  天皇制を先々の世代がどうするかは彼等の判断でいいのだろう。皇族が不自由な生活云々はだんだん自然な形になるのではないか。
坂田又は武谷の大学者が天皇制が科学研究の妨げになると言ったというのは知らない話だが、旧天皇制の桎梏の元で育った人のトラウマだと解釈するのが妥当だろう。いま現役の科学者に同じ質問をしたら、目が点になって質問が理解できないのではないか。
だから、天皇制と原発推進が底で繋がっているとは、これは奇怪な考えだ。

いまの天皇制について・・・・褌子

  戦前の天皇制のもとでどれだけの人間が命をたたれたかを思えば、私なども心穏やかにとは決していかない。
  しかし、現今の天皇夫妻はとてもいいひとみたいだし、奥さんのほうもいぜんより元気になって、何かふっきれて自分たちの役割を悟っているようだ。だから、私も天皇制即時廃止!などと目くじらたてる気はぜんぜんない。
  原発は一日も早く廃止したほうがよいと確信するようになったが、天皇制はいずれ将来、ゆっくりと消滅することになるのだろうと思う程度だ。
  日本がもっと成熟した落ち着いた民主社会になれば、君主制は不自然な制度として廃止したほうがよいのでは…の世論が大きくなるときがくるのではないか。皇族は就職も結婚もままならない。選挙権も納税の義務もなく日本国民の一員となっていない。基本的人権がない一家が自らをしばる身分制について自由に発言できないようにしておいて、「永久に統合の象徴でよい。いまのままでけっこうけっこう」とはいかないような気がする。
  むかし量子力学の坂田昌一先生だったか武谷三男先生だったかが天皇制についてきかれて「科学の発展を妨げる制度」といっていたことが記憶にある。地震国に原発54基という安全神話と「国民統合の象徴」という神話とは何か通底するものを感ずるのだが…。
  天皇制については関心がない。いま最大の関心事は原発問題。