暑いですなあ。セミが復活してうるさい。泣き声が「アツアツアツアツ・・・」と聞こえる。まあ、世の中気持ちの悪いことばかりだが、せめて心のバランスをとって、のんびりいきたい。今年の夏で69である。厚生省の簡易生命表をみたら余命15年弱。まあ、自由に動けてあと10年だろう。で、できるだけ怒らないことにした。怒りの感情は、生理的には棺桶のくぎ1本にあたるとのたまわったやつがいたが。 だいたい、周辺の雑事で怒って解決することはあんまりない。損するだけだ。
浜岡原発に関連して、地域の学習会などで話をたのまれているので、最近低線量の被曝について、何本か専門家の論文を読んでみた。ICRPの報告もみてみたが、つくづく英語力が低下しているなあと痛感。確かに知っている単語だと思うが、意味がぱっとでてこない。老化だなあ・・・・
つくづく思ったこと。どんな分野でもそうであるのかもしれないが、ある科学的結論を導くのに、その導出過程、計算過程において多くの条件の仮定がおこなわれている。ということは、その仮定の妥当性が問題になるのだが、もしも仮定条件を変えれば、結論そのものが大きく変化してしまう。そうすると、どういう立場や考え方で、その仮定をおこなっているかが問題になる。よくいう話だが、ボトルに酒が半分はいっているとき、半分という客観的な事実に対して、「まだ半分ある」というか「まだ半分ある」というのは、その人のものの見方、立場の表明だろう。どうも条件の仮定にはそういう要素があるのではないか。何本かの専門家の論文を読んでばくぜんとそういう感じをもった。 そこでこういうことになる。 専門家の科学的結論と称するものは、数学のような客観的なものを完全にもっているとはいいがたいことがある。「科学的」ということば自体に、ちと疑いを持っていたほうがいいのかもしれない。 つまり科学的議論というものは一種の二階建てになっているのだろう。一階は、だれも否定できない科学的な事実。いうなれば測定値のかたまりだ。これから結論を導出するプロセスが二階であるが、そこに多分に雑音がはいる。もっといってしまえば、科学者の思想的、あるいは哲学的立場である。科学とは直接的関係のない信念や、社会的な圧力で影響される立場である。しかも困ったことに、どうも科学者自身にそのことがよく自覚されていないようにみえる。哲学的には、ぼんぼんである。 その結果として、出てきた結論をめぐる批判と反批判、論争の世界は、一種の宗教戦争の様相をおびてくる。つまり価値中立的な「科学的結論」なるものが成り立ちうるのがなかなか困難になってくる。 低線量の確率的影響をめぐる議論にはそういうムードを感じてしまう。
したがって、以前にお師匠がのべられていたように、倫理的とか道徳的議論がどうしても必要なのだが、これはあんまり自然科学者は得意でないみたいだ。(だからデカルトを原語で読破していた中川先生なんて、一種の突然変異かもしれん。すごいなあ。)
ひとつお師匠にご意見を。「人民裁判」ということばは、どうもあまりおすすめできない。これ革命時の大衆の集団ヒステリーをさしたり、権力闘争の道具に人民のヒステリーを利用したときのことをさしたりすることに多用されてきたのだろうが、見方を変えると今の裁判員制度だって一種の人民裁判である。それにだいたいこの言葉は、革命でやられちゃう権力者につらなる、支配層の側がつかっているのがほとんどだろう。この陰には「大衆はバカだ」という偏見と、革命への恐怖感があったのだろう。 それに革命時の大衆の行動をこのことばで批判するのならば、そのまえにある膨大な権力者の大衆支配と、そこでながされた血に対しては、何と批判したらいいのか。残念ながら、民衆はそういうことばすら持ちえなかったのではないか。 人民裁判ということばの生まれた状況の対極の状況を考えないと、あまりフェアなことばとはいえないという気がする。 それにさあ。「罪なきもの、石をなげうて」といっても、ここでいう原発批判と、罪なきものでいう人間の原罪とは、次元がちがわないだろうか。原発でいえば、罪なきものはいるのである。彼らは石をなげる資格があるといっていいのではないか。で、原発をめぐる議論が、一種の宗教戦争の様相をおびるのならば、戦争は勝たなくてはならないのである。つまり相手をこてんこてんにしておくことは、原発の本質的非道徳性からみれば、まことに必要である。 やっぱり「水に落ちた犬はうっておく」ことをおいらも希望する。
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