2011年8月10日水曜日

ではもう一言・・・逸徳

わかいなあ。こういう論争やってること自体、あと1.2年で70とは思えん。まあ頭の柔軟体操ということで。

人民裁判ということばについて。いいたかったことはわかるが、これは敗北しつつある支配者側の悲鳴みたいなことばで、一般大衆から出てきたことばにはみえんので、このことば自体使い方によってはアンフェアになるということをいいたかったまで。

原発が、利潤追求の資本家、権力者の産物というくくりは、そんなに単純ではないだろう。やや粗雑ではないかい。戦後の日本エネルギー史をみてみると、いくつかの曲がり角があるように思う。昭和40年代に日本の石炭エネルギー(日本の石炭埋蔵量はフランスより多い)が国際的な石油資本によってうちたおされていった経過や、電気事業法の成立過程における電力資本の暗躍、その結果としての電力帝国ともいうべき、影の権力の成立、そして原発そのものが軍事と密接な関係をもっていること(ちなみにアメリカ最初の原発はソビエトに対抗しようとして、原子力潜水艦の技術をそのまま陸揚げしたものだというのは、よく知られたエピソードだ。) それぞれの曲がり角における資本の行動をみていると、それはさまざまなベクトルがからみあってきわめて複雑なのだが、資本主義社会だからといって、その行動がしょうがないといいきれるものばかりではない。つまり、露骨な利潤追求のベクトルがあまりにもはっきりと見えてくるのだ。そのような流れにのみこまれて、科学技術者たちのいきついた先が福島ではないか。前から、いくつもの技術的問題が指摘されていても、それを取り上げなかったのはきれいごとをいっても、まさに「もうけがへる」からだろう。その結果については、責任をとってもらおうといいたい。そして、そういうひとたちは、これからの社会の方向を選択決定する過程からは、すみやかに退場してもらいたい。だから、二度とでてこれないように、徹底的にたたいておきたい。みずに落ちた犬をたたくどころではない。こちらとしては首におもりもつけたいのである。

さらにいえば、原発の高濃度放射性廃棄物を地中に保管するといったって、10万年の安全を議論する能力がわずか数千年の人間の科学にあるのか。それがあるというのなら、それは欺瞞傲慢な反道徳的行為にみえる。それはもはや科学の世界ではなく、一種の宗教になってしまう。

先日ある経済番組で、なかなか就職できない若者や、主婦たちにまざって、どっかの新興資本の社長が出てきて討論をしていたのをみていたが、小泉以来の規制緩和の流れのなかで、みんなの給料はどれだけあがったのかという若者の声にたいして、「資本主義だからもうけてなにがわるい」といいはなった社長がいた。こういうのはむかつく。品がない。資本主義だからというせりふがとおるのなら、じゃあ貧乏人はテロでも革命でもやらしてもらうということになる。そこからは、何の希望もうまれない。

原発が宗教戦争ということについて。科学的という仮面をかぶりながら、相手のいうことをきちんとききもしないでわあわあと非生産的な言葉の戦争をつづける状況をいいたかったので、まあ「神学論争」といってもいい。
 罪なき者ということについて。原発のシステムからぬけだせない社会をつくっておいて、その中で生きざるをえない一般民衆に「お前も共犯」だなんていいかたをしているのではないと思うが、一般民衆の責任なんていうことをいうと、敗戦後の一億総ざんげということばを思い出す。そういうのは願い下げだ。たとえばだ。福島10キロ圏から脱出した、あどけない幼稚園児は、まさに罪なき者だろう。高木仁三郎さんなんかもそう思う。

ちなみにここでの罪という言葉の解釈はいろいろあるみたいよ。聖書のエピソードは知っていたが、あの話どおりの意味だけではないのではないか。興味があるので現在知り合いの牧師に質問中。結果がわかったら報告するる

0 件のコメント:

コメントを投稿