おや、珍しい。いきなり物陰から現れ、驚くではないかい。
人民裁判はいささか粗雑であった。言いたいことは衆をもって少数派(いまや)を叩く卑しさを言ったまでだ。或る歴史観にたてば正義の側の若干の過剰な懲罰は許されるということだろう。しかし多勢を頼んだ人間の卑しさはいつまでも残る。
「罪なきもの、石をなげうて」の罪は原罪ではない。パリサイ人が姦淫を犯した女を引き出し、イエスに問うた。さあ、この女を打擲せよ。モーゼの律法を犯したのだから。さあどうする、イエスよ。イエスの返答は、君らのうちで真っさらで間違いは一切やっておりません、てな奴が先ず打ちなさい。史上最も鮮やかな切り返し。大した役者だ。
原発について真っさらかな。真っさらだと言い張るならよかろう。打ちなさい。
権力側、利潤を追求する企業が推し進めた原発だ、中曽根がアメリカのいいなりになって始めたのだ。我々は被害者だ、真っさらだ、云々。よかろう、打ちなさい。
原発はいま世界中に何基あるのかな。一種の文明現象だ。それを前提として産業が、つまり国のなりわいが行われてきた。最近は温暖化を防ぐ切り札と目されてきた。日本の資本家、中曽根がどうしたの話ではない。日本は資本主義社会だから原発の周りに色んな会社が蝟集するのはあたりまえだ。それを利益を分け合う醜い集合体てな括りをすると話はあらぬ方へ行ってしまう。
いずれにせよ日本はいま重大な激動期を迎えようとしている。おおきな対価を払わねば社会は変わらないということか。と思うと、今日のニュースに福島の事故以降、世界で初めて中国の新原発が商業運転を開始したと言う。もうここは止まらない。どうする。
「原発は宗教戦争」はいつ誰が言い出したのか。ただ、小生の倫理の立場から参画出来るかも知れない。永久に終わらない、血を見るとか、パレスチナみたいにならないようにしたいものだ。
「水に落ちた犬は叩け」は相当に粗雑だ。魯迅がこの言葉を言った背景は当欄でも話題になったが、魯迅大先生だから何でも頂戴することはあるまい。実に粗雑な言葉だ。
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