以下に書く地名、固有名詞などはすべて架空のものであるが、最近わたしが経験した事実である。
戸籍のないKさんは自分の名前と誕生日、父の名前いがいにはわずかに「保土ヶ谷」にいたことだけを憶えているという人である。解離性健忘症でまったく記憶が喪失しているのである。家裁に「就籍」の申し立てをしてもう一年になる。保土ヶ谷がたぶん横浜の保土ヶ谷区にちがいないと、横浜の全ての小学校に裁判所の職権で本人の記憶する誕生日の前後10年の幅をとって、徹底調査を依頼してきた。
半年以上の調査をへて、同姓同名の学童が保土ヶ谷小学校に在籍していたという証拠書類がでてきた。 だが誕生日が本人の記憶する誕生日と全くちがっており五年もさかのぼり、昭和20年生まれとなっていて、同姓同名の別人だという可能性を排除できないと家裁裁判官はいうのである。学童の保護者名もないが、月丘台52と住所が記載されている。
そこでKさんとカーナビを頼りにこの住所を訪ねる旅に朝早くでた。月丘台にたどりつき旧家の町会長さんなどをきいてまわると月丘台いったいは空襲で半分以上が焼けた所であること。戦災孤児もたくさんいたこと。戦後、住所変更されて全くちがう地番になっていることがわかった。
区役所でこの月丘台52の新しい地番を調べて、車のナビをつかって新しい地番の所在地を訪ねあてた。 暑い日だったがすでに日が陰りはじめている。
そこは200坪くらい駐車場だった。管理している不動産屋に電話をしたが、お客でないとわかると電話を切られてしまった。その駐車場周辺の住宅を二〇戸近くしらみつぶしに聞きこみをしてゆくが留守宅がおおい。ほとんどが怪訝な顔をして、さあわかりませんとすぐドアを閉める。
Kさんと汗をぬぐいながらもうあきらめようかと、最後の一軒の古い家のブザーを押す。70才くらいのご夫婦がでてきて「あの駐車場はむかし孤児院でしたよ。米軍のバンドが慰問にきていたから憶えています。孤児達の火遊びで火事になり閉園になったときいている」との証言をついに得た。駐車場の地主がちかくの無量寺だからいってみなさいと教えてくれる。
無量寺の住職の親切なお母さんがむかし孤児院に貸していたときの地代の領収書の束を探し出してくれた。そして孤児院の経営者の息子さんがたしか北海道の士別市にいますよ。もう80才くらいになると思いますが、私の義父の住職が孤児をひきとって学校に通わせている孤児院の経営者を尊敬していて年賀状のやりとりをずっとしていたから、探してみますというのである。セピア色になった賀状がやっとみつかって士別市に電話をすることができた。
電話の向こうの声は「火事で孤児達の名簿が焼失してしまったと親からきいている」ということであったが、Kさんと私は、Kさんのルーツをついに探し当てたという思いでいっぱいで親切なお寺をあとにした。ただ孤児院周辺の景色をみてもKさんの記憶はまったく戻らない。保土ヶ谷小学校の旧校舎跡にたっても記憶にないとさびしく首をふるばかりである・・・・
以上の内容を詳述した報告書を家裁に提出。再度の審問の日も決まった。さあどうなるか
―――――松本清張に『ゼロの焦点』という傑作がある。戦後の混乱期に米兵相手の売春婦に身を落とさざるを得なかった女性が過去をいつわって北陸の都市の名流夫人におさまっているという話である。次々と起こる殺人事件について丹念に聞きこみをしていくこの推理小説を読んでいたことが、こんどのKさんの出自を求めての聞きこみに多少役にたったかもしれない。Kさんもこの小説を読んでいる。
Kさんが横浜空襲の戦災孤児どうしの同棲から生まれた子供で母親が家出をして育てるのに窮した父親が上記の孤児院に預けたのにちがいないというわたしの推理はたぶん当たっているのではないか・・・そんな気が今している。
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