いやいや、石炭が石油に勝ったらいいなんてことをいったつもりはないんだが。もちろん石油が主役になることは必然だったのだろう。 ちと話がずれたかな。 つまりいいたいことはこういうことだ。歴史にイフをいってもしょうがないが、もし歴史から学ぶことがあるとすれば、それぞれの時点で考慮されなかった、あるいはほとんど影響を及ぼさなかったようなベクトルが、もしきちんと考えられていたのなら、すこしは今の状況は違っていたのではないかという気がしているのである。結果としての歴史の方向はさまざまなベクトルの合成なのだろうから。
たとえば、なぜ70年代の公害があれほど日本に集中していたのか。経済学のなかに環境という要因があまりにもはいっていなかったのだろうということは前にも述べた気がするのだが、結局は最大利潤の追求というベクトルのみで、それを修正していく要素がすくなかったからだと思う。そして、科学技術のありかたは、明らかにそれに影響された。宇井純で有名な東大工学部には、そもそも環境という観点の研究者が絶望的なほどいなかったので、(そんなことはどうでもいいという意識だったのだろう) 宇井さんが遂に一助手で終わったのは有名な話だ。それがわかり、環境のための科学技術が進歩して世界一のレベルになったのはよかったが、そういうことがわかるまでに我が国はなんと多くの代償をはらったのだろう。日本カナリア論なんていうのもあったなあ。
ものごとが、経済原則だけで考えてはならないだろうということは、たとえばこれからの日本の農業を考えればわかる。経済原理だけで考えれば、日本農業は崩壊していくことになるだろう。それでいいか。
簡単にいえば、おかねもうけ第一の考えがじわりと、戦後史のいろんなところで、その汚染をひろげてきた、ということにきちんと気が付くことが、歴史に学ぶことだろう。そんな気がする。
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