葛根湯のはなしからもどしてもうしわけないが、ちと気になっているので。諸兄のご意見をいただきたい。
最近、地域の放射線の学習会によばれることが出てきた。このときに、どうも気になっているのが、低線量の被曝の問題である。科学的にうそをいうわけにもいかないし、だといって、あくまで科学的にやろうとするとなんだか市民の意識にバイアスをかけるような気もして、やや悩んでいる。
ちと、情報を整理してみる。 100mSVぐらいまでは、被曝線量と影響の間に比例関係がある。つまり被曝が、健康に影響するということが疫学的にも出ているといっていい。ところがそれ以下では、影響と被曝線量の関係がはっきりしないので、というよりは統計的に結論を出そうとすると莫大な数の集団を調べなくてはならず、それが現実には無理というのだろうが、とにかくそこでは直線的比例関係を仮定する。いわゆる「閾値なし直線性仮説」である。つまり仮説なのだ。ところが、このへんになると、さまざまな現象の報告が出てくる。ここでは内部被曝か外部被曝かということははずして考えている。詳細は省略するが、低線量でも、悪影響がおこるという、ペトカウ効果や、バイスタンダー効果があるかと思えば、逆にかえっていい影響があるという放射線ホルミシス効果などなどである。 これはラドン温泉などの根拠になっているのだろう。 ちなみに最近WHOは、ラドンの健康への影響について厳しいことをいいはじめているらしい。(だから、ラドン温泉はいくのはやめた)
ところがこれらの現象が正しいのなら、疫学的調査でなんらかの影響が出てくるはずだ。しかし、それがはっきりしない。というよりは「よくわからない」というのが正解なのだろう。 わかっていたら教えてほしいが。だから全体的にみて、これでは「群盲象をなぜる」状態で、「正直なところよくわからない」のである。そうすると1mSvがどうのこうのという今の騒ぎはなんなんだということになる。したがって、1mSvはあぶないから除染させようというのに対して、あぶないかどうかわからないけれども、とりあえずあぶないかもしれないので、除染しておこうというという言い方になってしまうのだが、これはなんとも迫力がない。どっか、市民の熱意に水をかけることになる。そこでおいらも言い方に迷いが出てしまうのである。市民運動の足を引っ張っているのではあるまいかと。
社会心理学に「ネガティビティバイアス」という現象が知られている。これは、一般にひとは「負の情報を過大評価する」という心理的傾向をいう。「あなたの連れ合いが、財布を落としたといった場合と、財布拾ったといった場合、それを聞いてとっさにどっちの方を信用するか?」という質問をよく、いろんなところでぶつけてみるのだが、まちがいなく、過半数、ときには8割以上が「落としたほうを信じる」と答える。これは考えてみれば、進化論的には当たり前で、負の情報を過大評価していたほうが、生存の確率は高くなるからだろう。そして、どうもこの現象が広範におこっているような気がするのだが。
ところで日本人のがんによる死亡は33.1%というデータがある。つまり1000人中331人ががんで死ぬという。一方で100mSvの被曝でがんによる死亡は0.5%であるという。つまり331人が336人になるのである。ただし、増えた5人は誰にもわからない。これが確率的影響といわれるゆえんなのだが、自分が336人の中にはいっていても、その中の5人にははいっていないと、ひとは考えたがるらしい。これは「正常化バイアス」と呼ばれる。したがって、それはどこか他人事になるのである。ああ凡人は度し難い。しかし100mSvで1000人に5人とすると、直線性仮説を認めるとするのなら、1mSvではその100分の1の0.05人になる。2万人にひとりだ。これは、おそらく自然放射線の変動幅のなかにはいってしまうのだろう。 だいたい今の1mSvの除染さわぎは、自然放射線をひっくるめているらしい。なんだか変な話である。
酒瓶に半分酒がはいっているときに「まだ半分ある」というか「もう半分しかない」というか、という話がある。元の情報はひとつなのに、それをどう評価するかは、その人の立場による。そうなるとこれはもう科学というよりは、思想やイデオロギーの問題になる。現在の事態を把握する土台にはこの問題がありそうな気がする。
くたびれた・・・ひとやすみ
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