むかし、勿来の関跡を國兼さんと私を案内していただきましたね。
武将の銅像があったような記憶があるがあれが八幡太郎義家だったか。義家の和歌の碑もあったんだね。
・ 湿拓を施す関の碑に 油蝉のこゑ染み返るなり
湿拓って私には難解だが、拓本をとること?
油蝉の声…山寺も油蝉の大群ではなかったか。one cicadaでなく。
・ 武士の礎築きし義家の 今日の世を見て何を思ほゆ
・ 古の蹄音する関跡に 太平洋より渡る春風
源家義家の馬の蹄
・ 可憐なる猩々袴見つけたり 春まだ浅き関の古径に
なかなかいい歌である。
そこで八幡太郎義家について調べた。東北と縁の深い武将であることがわかった。義家のひ孫が源義朝で義朝の子が頼朝や義経だ。源氏は東国系、平家が西国系だということがわかる。清盛は助命した頼朝をわざわざ東国の伊豆に流したのが平家滅亡の原因をつくった。
「平安後期の武将。源頼義の長男。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号した。前九年の役に父に従って参戦,勲功により1063年(康平6)従五位下出羽守となり,やがて下野守に転任した。陸奥守兼鎮守府将軍として赴任,任国に起こった清原氏の内紛を私兵をもって鎮定した(後三年の役)。しかしこの戦乱を通して義家と東国武士間の主従結合が強化され、義家は〈天下第一武勇之士〉と評されるに至った。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ、貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという」
腕っ節だけでなく文人でもあったようだ。
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