歳も押し迫った。函館は雪はさほど多くないが真冬日が続き寒くてかなわん。森井家は半ばに入院した義母が管を付けたままなので正月らしい正月にはならないだろう。
さて、ここの所の諸兄の書き込みに私にとっては懐かしい地名・人名が出てきたので今年を振り返る気持ちも重なって筆を取った。
先ず褌子さんが行ってきた倉敷と尾道。共に北大の3年から4年の間の春休みにリュックを担いで一人旅。倉敷のO君、尾道のS君(共に恵迪寮友人)の家に転がり込んで一泊お世話になった。早春の瀬戸内海は穏やかで本当に優しさを感じさせてくれた。倉敷の大原美術館は休みで入れなかったのが残念であったが尾道から九州に入る前広島で原爆ドームと記念館に寄れたのは今になってみると貴重であったと思う。しかし、歳月は苛酷だねO君もS君も既に世を去ってしまった。
次は横浜国大の中西準子先生。ダイオキシン問題で塩素系樹脂の焼却が問題視をされていた頃だ。環境庁が環境省に移る寸前の頃だったと思う。環境学会の中でダイオキシンでばたばた人が死ぬような似非データを多くの学者が並べる中「環境リスク論」を展開し冷静な判断を下していたのが中西先生だった。役人は庁から省に移って予算を分捕りたい動き、マスコミは煽るだけの論調、ダイオキシンはこんな形で世の中を転げまわっていた。懐かしくもアホらしくも思い出す。
最後は柳家小三治師匠。高校の3年上の先輩である。昭和30年頃ラジオの素人寄席という番組で10週勝ち抜いたというつわものらしい。学校は府立15中から都立青山高校になった。今でこそ都立高校の中では進学校として上位を占めているらしいが都立一のゲバルト高校としても名高い。私の頃も落語研究会があれば社会科学研究会が極めて先鋭的に活動をしていた。
去年創立70周年の同窓会で師匠の独演があったが残念ながら出席できなかった。
懐かしさがここまできて丁度歳が明けそうになっている。
皆さんよいお年をお迎え下さい!来年もまた宜しく!
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