東京近辺にいると、いい展覧会にすぐいける。これだけは東京がうらやましい。とにかく静岡からだと往復1万なのだから。こういう文化的格差は腹が立つ。ほかのことでは別に東京がうらやましいと思ったことはないのだが。もっと文化財を地方に移転してくれんかなあ。コンチクショウ。
ところで、きのう原子力資料情報室の故高木仁三郎の「原発事故はなぜくりかえすのか」(岩波新書)を読んだ。読み始めたらあまりにも面白くて、ついにおくことあたわずというやつで一気に3時間で読んでしまった。これは氏ががんになってから病床でかかれた絶筆であり、見事な文化論である。氏は冷徹な科学者であり詩人であり、思想家であった。ほんとにいい人は早く死ぬ。そしてどうでもいいのが、世の中を闊歩している。世の中よくなるわけがない。
その中でおもしろいのは、私小説と仏師をならべて論じている部分である。個人の中に見る「公」の部分という章である。私小説は「私」ということにこだわっていて、そこから発して、往々にして破滅型というか自虐的に自己の内なる世界に埋没していく。そういう堕落していく人間の悲哀みたいなものをえがくことで、ある種の人間性の中の普遍性を書こうとしている。それに対して、仏師について、氏はこういう言い方をする。仏師の中には理想の仏陀のイメージを持っていて、それを目指してほっていく。つまりそこに向けて自分の技術を習熟させていったはずだ。けれども仏師が目指していた仏陀や如来などの像は、多くの人を満足させなくてはならないから、そもそも非常に公的な性格のものであるわけです。しかもなおかつそこにやっぱりその仏師の個性があらわれなくてはならない。つまり人々が求める普遍性、公共性というものをまったくの個人としての自分が体現しなくてはならない。このことを氏は「仏師の公共性」とよんでいます。 ここから技術のなかの普遍性や公共性というものに話がつながっていくのですが、技術者の思想性ということについて考えていた自分の問題意識にぴったりとあった感じがしました。 ぜひおすすめ。どなたか読んでみてください。まだ読後のハイテンション状態がつづいている感じで、今度この本、市民運動の読書会でどうかと提起してみようかと考えています。
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