2013年3月30日土曜日

しかしまあなんというか・・・逸徳

褌子氏は、ほんとに、どこにいっても若い女の子の手をにぎるという特技があるねえ。おいらなんか気が小さくて、ただ茫然と羨望の思いでみているだけだ。いわれてみればそういう場面ばかり思い出す。 やっぱりみつごのたましい百までわすれずということなのだろうか。
 原発労働者のことについて。しばらく前には、炭鉱が廃山になって、炭鉱労働者が大量に原発ジプシーになったという話を聞いたが、浜岡でも暴力団の関与の件はうわさとしては聞いている。なにせ、人口比で飲み屋が全国で一番多い町なのである。あの小さい町に覚せい剤もはいりこんでいる。
 一般に恐ろしい事実に直面すると、それに対する個々人の認識姿勢は全否定から全肯定まではばひろいスペクトルを示すだろう。そのスペクトルのどの辺にその人が位置するかは、第一にその人の生きてきた歴史がかかわるにちがいない。体験が認知に影響して程度の差はあってもバイアスが発生するからだ。第二に、恐怖からくる防衛反応があると思う。福島の震災で、高校生ぐらいの男の子の遺体が、やっと両親のもとにもどったのだが、その損壊が激しく両親は直視できない。その遺体のそばでテレビをみてわらっていたという話を聞いたことがある。遺体の復元の専門家が2時間以上かけて遺体を復元したら、はじめて父親が遺体にすがりついて「ねむっているようだ・・・・」と号泣したという。これらのような我々自身も持っている事実に対する認知のゆがみの危険性にたいして、ではどうするか。ここで感じるのは、やっぱり自分が自然科学の教育を受けてきたということである。ハムレットではないが、この世界にはなんでもあるのだ。何があってもおかしくない。そこから出発することがただしい認識の出発点ではないかという気がしている。

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