あらは「あらさがし」のあらで、欠点の意です。原発に関する問題点ばかり列挙して、面白くないの意だと思います。彼は電力会社の買収の場面や、敦賀市長が地元企業の会合で「子孫に奇形がでるなんてわからん。とりあえず今は原発でがっぱがっぱと儲けよう」というような演説(これ実話)をした場面をとりあげて、金のことばかりいうというのも怒っていた。 ちなみにこの人我が家のとなりで、先日の市会議員選挙で突然立候補し、ひとりではしりまわって、最下位で落選したという変わった人である。やや認知のゆがみを感じる。彼の怒りに「事実と直面する勇気をもたないと」といったのだが、帰って行った。まあチケット買ってくれたのはありがたい。そうそう、この市長の息子確かいま自民党の国会議員で、現在の原子力規制委員会の国会での人事承認の議決の場から退席したひとである。
感動させなくちゃという話だが、これはじめから無理。ブレヒトという人の作劇作法は、情緒的共感を排して、観客を冷静にさせて、ひとりひとり批評家にするといったようなことを狙っている。うまくいえないんだが。 だから従来の演劇を抒情劇というのに対して、叙事劇といういいかたもある。したがってたとえば劇をめぐって観客の間に議論がまきおこったり、あるいは劇の内容に対して、観客が怒りだしたりしたら、これ上演としては成功だということになる。ちと今までの演劇とはちとちがうのである。 つまり感動して我を忘れるというのはだめだということらしい。 うーんうまく説明できない。すまん。
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