「言葉をつかいながら言葉を超えるというのは、言葉によって構築されたイメージが、その力によって、言葉が限定してしまう世界を超えるというのだろうか。でもなんのことはない、それも土台は言語にたよっているのではないか。」
いや、まさにそうなんだ。著者もそれは承知で言っている。しかし伝える手段が他にないからやむを得ないというところだろう。だからコトバの関節を外すとか、変なことをいう。
「古池や蛙飛び込む水の音」だって、十七音で言っていることは実に些細なことだ。しかし背後に醸される或るイメージはあって、これは曰く言い難いものだ。
コトバで表現しきれぬ何かはまさに普通の俳句でも追求している物なんだが。
しかし、あの受賞作は褌子氏のいうようにどうもなあ。
判る、理解するということの既定概念を変えてくれとも言っているようだ。それが可能なのか実体があるのか。もう少し考えたい。
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