2011年1月1日土曜日

新年おめでとうございます。・・・・逸徳

��011年最初の名誉ある投稿を。 いい詩をみつけて 年賀状に使おうと思ったら、つれあいにいわれた。旧漢字?づかいが多く読みにくいと。しかし、すてるのはもったいなく、あらためて新年のあいさつにここに載せてみることにした。ご鑑賞のほど(段落行替えは無視。ご容赦)

私たちの祖先である古代びとたちは、あらゆるものの裡に魂があると考えた。魂とは玉し火であり、球型をした火の謂である。空を飛ぶ鳥、地を這う獣、戦ぐ樹木、もの言わぬ巌にさえ、その内部には球型の火があって、炎炎と燃え熾ってゐる。だから世界は集合離散する火の秩序の別名にほかならない。それら、無限の物質と同じ数だけある無限の火の中の第一の火、生命の火の総元締は何かと言えば、もちろん太陽である。天に燃える巨大な魂の溢れる恵みを享けて森羅万象の、そして人間の裡なる太陽は燃える。これが、自然と人間の照應の根本である。しかし、疲れをいらぬ天の魂、衰へを見せぬ第一の火の燃焼にも、いつかは終わりが来るのではあるまいか。その終焉は疑ひもなく、すべての生命の火の終焉、世界の終焉でもあるはずだ。恐れた人人は、そこで「死んで甦る太陽の信仰を産み出した。一年が終わり太陽は死ぬ。しかし、死んだ天の魂は聖なる水で洗ひ浄められ、黄泉の国から生き還る。そして、これこそが「よみがえり」の、「あらたまの年」の最初の意味なのだ。
今日、昇る太陽は昨日と同じに弱弱しく見えるが、明らかに異なっている。昨日の落日の弱弱しさはあからさまな老衰の徴だったが、今日の日の出の弱弱しさは赫奕たる誕生の証なのだ。黄泉の水に洗はれて甦る天の魂とともに、この晨、私たちの裡なる太陽も浄められ、いきいきとあらたまるのである。
   ・・・・・高橋睦朗詩集「暦の王」より

新年にあたつて希望ということを考える。昨年は多くの知人を見送り、生と死について考えさせられたが、その前提として希望の問題がある。希望について語るということはひとつの明確な意志を持った力のある行為である。だが、現実は厳しく、希望を見いだせない若い人たちがそれこそ絶望的行為にでる。もしながく生きたことがひとつの知恵につながるということであるのならば、老人こそ豊かな希望の語り手にならなければならないのだが、実際はそうではない。墓場までの距離の測定と年金残額の計算しか話題はもりあがらないのだ。 ああ、なんということだろう。あした世界が終わりでもやはりりんごの樹を植えようではないか。
 昨年読んだ本。岩波新書「希望のつくり方」玄田有史(これ案外いいぞ)  これからの「正義」の話をしよう マイケルサンデル  西の魔女が死んだ 梨木香歩(DVDになった 小5から中学ぐらいの孫がいたらみせるといい) 自死という生き方 須原一秀  生物から見た世界 ユクスキュル・・・・で「希望の原理」Ⅰ エルンストブロッホ・・・これ三度挑戦して三度挫折した。

まじめに、未来を悩む若者に「だいじょうぶだ、明日は必ず来る」というやさしい年寄になりたいと、このごろつくづく思う。年をとるということはけちをつけることがうまくなるということと同義ではないだろう。もう、ぐちは飽きた。

というわけて゜みなさま今年もよろしく

追伸 大沼では氷の切り出しは昔からやっていたらしいぞ。お師匠さんへ。

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