寒いっていったって、南極まで観光にいくやつがいるんだから、凍死することもあるまいし、まあ何とかなるよ、仁ちゃん。 それよりも今の心理状態は、歴史的な観光地などはモチベーションがひくく、あんまり人間がでかい顔しているところはいきたくないという心境なの。迫りくる老いへの無意識の抵抗かもしれない。ただ、ひとつだけ悪い予感がする。寒い。秋田から青森だ。もしかしたら旅行中ずっとよっぱらっていそうだ。まあいいか。酔生夢死だ。
こちらは風がひどいが、晴天が続き、毎日茶畑のむこうに富士がよく見える。別に感情移入しようとはしていないが、だまっていつもこっちをみていると、なにかいいたくなってくる。変な感じだ。おいらがぽっくりいっても、やっぱり富士はこっちをみているだろうし、そうすると何となく、この世には永久不変もものはやっぱりあって・・・などという、変に情緒的気分におちいり、笑ってしまう。
ことばはむつかしいなあ。うまく表現できず、お師匠に申し訳ない気分で。(あやまることはないんだが) たとえば、ある男が、一人の女に恋して、「彼女は世界一やさしい女だ」とくちばしったとする。 これは事実とは判明しがたいが、すくなくともおとこにとってはうそではない。こういうイメージがおいらのtruthである。「神はいる」などというのもこの手の命題であろう。しかし、このtruthにひとは命をかけることさえあるのだから、「そりゃただのおもいこみ、主観」だとじゅっぱひとからげにするのはどうも僭越傲慢な気がして、「そうですか」とちいさい声でいい、じゃ自分はどう思うかと心の中で反芻したりする。つまりそこでやっているのは、客観的事実(fact)かどうかという論争とは、ちとちがう。 だからtruthはprobabilityではない。 彼女は世界一やさしい女だということをprobabilityで考えたら、こりゃおもしろくないし、人生にドラマがなくなると思うが。
とにかく、日本の革新勢力の歴史というのは、やや宗教じみているところがある。たとえば、大正時代の文章で、「カレーライスをくうのはプチブルだ」という言葉が出てきて、こしをぬかしそうになった。 まじめであることはいい。だがまじめなやつほど、簡単に転向したりする。転向というのは過去の自己否定だから、そういうやつは転向後、自分を正当化しようとして、ものすごく反動的になる。 そういうのは組合運動でゲンナリするほどみてきたよ。 重要なのは、ほんとに大事なことは何かということにおいてぶれないことだと思うのだが、それが何かは実のところよくわからない。反核運動で、原水協と原水禁が分裂したままなのは、実に日本の恥さらしで、ある被爆者がおいらにこういったことがある。 「広島の平和公園の原爆慰霊碑の前におおきなプレハブでもたてて、そこに原水協と原水禁の代表者を全部いれて、外からかぎをかける。統一の結論がでてくるまであけてやらない。」と。ユーモアは絶対に必要なのだが、その裏の思いを想像すると、やりきれなくなるな。ほんとにやりきれない。一事が万事そういうところがないかなあ。
前にも書いたのだが、エーリッヒフロムの名著「自由からの逃走」に「外界に結び付けられているへその緒を完全に断ち切っていない人に自由はない」ということばが出てくる。(実はもう一度そこを読んでみようと本を探したが、行方不明であせっている。へそくりをはさんでおいたもんで・・・・ ) ひとの自立の過程とは、さまざまな絆から解放されていく過程である。だがそのようにして、自立するということは、見方を変えれば「孤独」にむかうということだろうと思う。 その孤独感に耐えられないとひとはなにかの権威にすがりつこうとする。一種の母胎回帰のようなものである。 まさに教条主義の出発点はここにあるのではないか。
0 件のコメント:
コメントを投稿