ひとから批評されたのは、数すくないが、さらにお師匠に添削いただいた。光栄です。ありがたい。 一番おもしろかったのは、五七五も季語もどうでもええと居直った仁ちゃんである。 うーん、おいらのイメージにぴったりで・・・。しかし、-11度かよ!!・・・・寒さには強いつもりだが、ややビビる。
最初の句について。 実は北大時代、童研のサークル仲間だった同期の女性がなくなった。文学部をでて、源氏物語専攻なのにどういうわけだか小樽商大につとめ、最後は助教授ぐらいまでいったと思うが、これがなんだかよくわからんのは、彼女の商大での専門は電子計算機とプログラムだという。 別に彼女との間に何かあったわけではなく、いろんな議論をたたかわした親友がたまたま女だったということである。それが暮れになって、突然旦那さんから訃報がとどいた次第。 ・・・・そんなこんなが、この句の背景に沈潜している。 考えてみれば、やりのこしたこと、すててきたことが多々思い出され、老いるとは、次々にいろんなことをすてていくことだと考えていたが、こうして親しい知人に旅立たれると、やっぱり人生の宿題をちゃんとはやってこなかったなあという気がして、この句になった。したがって、ここはやはり「遂に羽化せず」といいきりたい。しかし、このへんになるとこれはもう人生観の問題だろうなあ。・・・・
こどもが、人生で最初の体験をすると、実にさまざまな反応をする。うちの孫が2歳のときに、シャボン玉連続発生器という装置をつくって、一気に大量のシャボン玉をつくりだしてやったことがある。彼女にとっては、最初のシャボン玉体験だった。何かわからないとてもきれいなものとの初めての出会いであった。朝日に輝くシャボンだまの大群につつまれて、シャボンだまに手をのばしたときの写真がのこっている。まごばかといわれるかもしらんが、感動と、喜びと、驚きがいりまじった実にいい顔をしているのである。ああ、こういう顔で感動しなくなったのはいつだろうかと考えさせられた。・・・・・ で、そういうことに関連して、何とかこれは俳句か和歌にならないかなあと考えつづけて、心にあたためている光景がある。それは幼い子が、はじめて「蒼空」というものの存在に気が付いて、だまってそらを見上げている瞬間である。そんな光景を昔みたような気もするし、遠い昔の自分の経験かもしれない。そこで何がおこっているか。その瞬間の、その子のこころの内側を想像すると、それこそとりはだがたつのだ。オーバーにいえば、生まれいでた幼い魂が、この広い宇宙の中に歩み出て、宇宙とであった瞬間であり、それはふたつの宇宙の出会いでもある。このイメージをなんとかあたためているが・・・・うーん、なんともならんか。くさったかもしれん。・・・・・で、そういう感じで「みどりごの 目の中の蒼空(そらと読ませたい・・・無理か) 椿咲く」の句をつくった次第。したがって宙空とかいて「そら」と読ませるかとも思ったのだが・・・
現在外気温6度。 やっぱ今夜もなべだなあ。 おーい褌子さん、五能線にいったら絶対ひとくちでもええからきりたんぽ食べよ。
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