斎藤茂吉については加藤周一「日本文学史序説」に何度も触れている。
「医者=歌人であった茂吉は、実証的な自然科学の方法と文学的な表現(および研究)の方法とを生涯を通じての経験をふまえて、熟知をしていた。(中略)「自然」と「詩」に対して、見事に知的に武装していた斎藤茂吉は、歴史的な「社会」に対しては、無防備で、ほとんど小児のごとくであった。30年代末の軍国主義の時代に、彼が突然、中国侵略戦争を謳歌し、東条をはじめとする軍閥の指導者たちを賛美し、戦争宣伝のために沢山の馬鹿げた歌を作ったのではない。権力がそれをもとめたときに、彼にはそれを拒否するどういう理由もなかったのである。茂吉は便乗せず、まさに小児のように、信じた。・・・」とある。
斎藤茂吉は戦後、山形の郷里に帰って70才でなくなるまで歌をつくりつづけたが、「聖戦賛美」の自分の歌については戦後、高村光太郎のように反省的に語ったのかどうかは、不勉強で小生は知らない。
「中国との戦争を支持し、太平洋戦争に熱狂し、天皇とその軍隊を無条件に賛美した」(加藤周一)そんな斎藤茂吉を中川先生は評価できませんといっているのではないだろうか。むろん精神科医の業績や秀歌の数々にではなく。先生は歌をつくっていたから斎藤茂吉はもっとも関心のある人物だったのであろう。
戦争賛美のうたで国民を鼓舞するすべも全く知らなかった庶民は、戦後「だまされた!」と軍部をうらんだ。が、映画の野村萬作監督は「だまされた、だまされたというけれども、だまされたという戦争責任もあるんだ」と興味深いことをいっている。
さて―――――
「傷ましい」を広辞苑で引くと「わが身が痛むほどかわいそうである。ふびんである。いたわしい」とある。大辞林では「見ていられないほどかわいそうだ。痛々しい」とあり用例に「愛児を傷ましい交通事故で失う」などとある。
とすると、レーニンを尊敬していた中川先生(私が証言できるのは大学紛争が始まる前の昭和42年春。前年に就職して翌年、先生の自宅を訪問したときのこと。晩年はレーニンをどう評価していたかはきいてないのでわからない)を「傷ましい」という言い様も、少しちがうのではないかという気がしてきた。
��時代劇でいまは落魄の主人にかつての家来が「おいたわしゅうございます」と泣く場面があるが、こんなばあいはなんといえばいいのか)
むろん私は決して傷ましいなどというつもりはない。レーニンがツアーの圧政で苦しむ農奴や植民地を解放し、ロシア革命で社会保障制度をつくった指導者であった事実はゆるがない。新経済政策NEPで市場経済を通じての社会主義を目指した事実も
。しかしレーニン主義のなかにも78年後のソ連型社会主義滅亡の胚胎があったということだ)
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