お師匠は二月はいつごろお立ちかな。 うらやましい・・・・さて 現代俳句に対する、お師匠の解説と感想を。しかしまあ、なにいっているんだろうなあという気がする。中村さんなんか、ああそうですかとしかいいようがないなあ。こういのが賞という世界は理解できないし、まあ身内ですきにやってちょうだいという感じになる。
言語にはかならずイメージが伴う。蹄鉄という言葉を聞いてリンゴをイメージすることは、まずない。あるとしたらそれは他者と共有されていないイメージであろう。 つまりそのイメージはある程度共有された社会的存在のはずだ。 というよりは、あるイメージがあってそれに対して、ある音声信号があとから生まれてそのイメージに対応したのが言語の発生だろう。つまり音声信号とそれに対するイメージには一定の社会的共通性がなければ、言語は言語として成立しない。 オノマトペのような問題はあるが、あれは言語ではなく、音声をつかった表現であって、むしろたとえば舞踊にちかいと思っている。
さて、そこである言語の集団をわれわれが聞くと、その言語に伴うイメージの世界が頭の中に立ち上がってくる。そしてそのイメージの世界から受ける印象から我々がどういう感情を持つかということである。 たとえば「空に置き去りの蹄鉄梅咲いて」の句のイメージを思い浮かべてみると、あおぞらの中にぽっんと置き去られた蹄鉄というイメージを思い浮かべても、ある種の不安感は感じるが、だから何なんだといいたくなり、これはもう統合失調症患者の妄想に近くなってしまう。いやそもそも現代俳句はあんまり読み手を考えていないのだろうか。したがってわからんのである。何が賞に値するのか。
現代詩や抽象アートなんかのほうが、もっとイメージの構築において綿密な戦略と受け取り手に向けての多様なチャンネルを持っていると思うなあ。たとえば死んだが、太田省吾という劇作家の「水の駅」という芝居がある。これ全編せりふがない。 しかし、すごい表現力は確実に観客に伝わる。
現象学というよくわからん学問があるが、その中で、深い森の中で一本の巨木が朽ちて倒れた、その音を聞いたものはだれもいない、では、この木は本当に倒れたといえるのか・・・という問題がある。この問題の意味はいまだによくわからんのだが、自己流解釈でいうと、ある現象は認識されてはじめて、我々の世界の内部の問題になるということだろうと思っている。もし中村さんが、自分の感性の内部で完結すればいいというように思っていたとしたら、それはこの深山の巨木倒壊と同じで、他者にとっては無意味な存在になる。だとすれば、これはやっぱり統合失調症患者の妄想に近くなる。 まあそれでもいいのかもしれない。 そのようなものにこっちが触れることで、この世界の見方がちっと味付けされれば。
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