仁兵衛氏はあまり深く考えても、というが、まあ、ああだこうだと理屈をこねるのもまた、俳句の楽しみの一つ。すべては大いなる遊びの世界ですな。
逸徳氏の「共有された社会的存在」という言葉に、ふと谷川俊太郎の一文を思い出した。
「人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、言葉を獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものを捉えようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩は言葉を使っているのに、言葉を超えた混沌にかかわる。」
さらに敷衍すると、今は社会内存在の言葉(デジタル言語、散文)がどんどん肥大化している時代ともいう。詩の世界からこれに対処するには、あるいは相互流通させるためには、と言ってもいいか、散文の関節をはずしてやる必要がある、という。
この辺に詩人の心構えを理解するカギがあるのではないか。新しい試みをする俳人は、こんな想念に捕らわれているんだろうと思っている。
それにしても十七音じゃどうにも埒があくまいと思うが。フラクタル幾何学をちょっと考える。フラクタル構造においては、切り取った部分であっても全体と同じ複雑性を持つとする。前衛俳人はそんな気構えでいるのではと思ったりする。この部分は蛇足。
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