2011年1月7日金曜日

で、つづき・・・・逸徳

おいそがしいようで、結構。 何もしたくなくなったらやばい。 閑話休題  フィールドということについて。 最近思うのだが、フィールドをもつことは大切だし、健康にもいいよ。フィールドとは主たる関心事がむかっていて、そこでエネルギーをつかうことに意味をみいだしている世界である。 ただし、このフィールドにはひとつの特徴がある。それは社会的な存在というか、ひととのつながりのなかにつくられるものでないと、どうも満足しないのである。 つまり無意識のうちに何かの社会的意味を見出そうとする世界かもしれない。そういう意味では、まったくの個人的営為はフィールドにはなりにくいというか、ならない。自分がどっか満足しないだろう。 お師匠の俳句の世界はうらやましいフィールドだなあとおもう。そしてそれはまったくの個人的営為ではないだろう。だってさ、深山の誰もいない森の中で、名句をものしてもどうしようもないだろうし、発表し誰かに伝えて、はじめて達成感をもてるのではないか。 そういう意味で社会的なフィールドだと思うがいかがだろう。おいらは、いまだに自分のまったく満足できるフィールドをみいだしていない。

レーニンはひとつの科学体系をつくろうとしたという意味において、アジアには生まれにくかったようにおもう。 キリスト教という唯一神の世界の産物である。で、おいらは資本論をしっかり読んだわけではないし、いまだによくわかっていない。いや全然わかっていないというべきである。 したがって、彼の論理体系と現実とのずれの原因がどこにあるのかも実はよくわからない。ただ、このずれの谷間に、さまざまな20世紀のドラマがおちこんでいるように思う。 いや、また何かのヒントをくれるときがくるかもしれない。それまで、棚のすみにおいておけばいいと思うのだが。 ただし、教条主義はよくないことは当然で、なんでレーニンを神様にしてしまうようなことがでてきたのかなあと思う。 これも人間のある種の弱さの反映かもしれない。 自立していないやつはなにかにしがみつきたくなるぞというのは、フロムが「自由からの逃走」で指摘していることである。まあ、残りすくないのでどうでもいいけど。 まずもう一回資本論を詠む時間もないだろうから。

はっきり事実とは判明しないが、すくなくともうそではないというのがtruthのここでの定義である。 それはfactではない。本人がfactだとさけんでも、それはわからない。 つまり帰納とか演繹といった科学的思考法とは、別世界のことだと思う。
だからAがこれはtruthだといっても、どうしようもない。 「あなたにとってはそうなんですね。」と認めるしかない。Bはそれを受け入れたければそうすればいいし、だめなら敬意と愛情をこめて「そうですか」というだけである。  ここらへんのニュアンスを「事実とは判明しないがすくなくともうそではない」といういいかたにこめたつもりだが。 この、ひとそれぞれのtruthにしたがってひとそれぞれか゜生きることを「ひとは物語をいきる」というのだろうと理解している。

しかしだ。やっぱりある日突然軍国主義者が民主主義者になったようなノーテンキな敗戦時の日本人の行動パターンはいただけないな。お師匠のいう「なんじらのうち、罪なきもの、石もて、この女をうて」というのは、こういうこととつながる。そのへんを総括せず、自分を安全地帯、あるいは「かよわい民衆」という、都合のいい立場においてあれこれいうのは、まったくおかしい。 ちなみに初めて書くかもしれんが、おいらのおやじは典型的な戦争犯罪人であり、たちのわるいことにそれをごまかして、地下に潜行し日本ににげかえってきた人間である。
したがって、心理的に「軍国主義者と無辜の民」という図式に昔から抵抗はあった。 だから日本人が全員そのあたりを総括しないで、戦争犯罪の構造を論じるのはたしかにおかしい。しかし一方で、だからといって、戦争犯罪人のやったことを許せるかといったら、そんなことは全然ない。 第一、そういうことをちゃんとしないとおいらはおやじを乗り越えられんのである。水に落ちた犬はたたけといったのは鄧小平だったかなあ。 中国人のずぶとさを感じた。 その点、日本人はのんきて゛あるのだろう。 ヒトラーの総括をドイツがどうやったかということは、おいらの個人的生き方の問題としても関心があるのである。 

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