2011年1月7日金曜日

そこで千日手に乱入・・・・逸徳

こういう風に考えている。といっても漠然とだが。 で、いいたいのだがこの世界には「事実ではないが、うそではない」ということがらがたくさんあるということではないかなあ。いやいいすぎた。「事実かどうかは、はっきりと判明しないが、それはすくなくともうそではない」という命題である。 これをAとする。で、あるひとαにとってはAはまぎれもなく「うそではないほんとのこと」なのだ。だがAは別のひとβにとっても「うそではない、ほんとのこと」かどうかはわからない。αに対してβが、お前のAは事実ではないといってもしょうがないのであって、それはもう全然土俵が違うのだろう。前者、つまり事実が英語でいうFactであり、後者がtruthである。 このふたつの言葉に関して、忘れられないことがある。 ミュージカル「ラマンチャの男」は有名であるが、そのなかに「The fact is the enemy of the truth」というセリフがでてくる。「事実は真実の敵」だというのだ。ひとつの表現にこれほど衝撃をうけた体験はすくなかった。

でおそらく人間の生はこのtruthを軸にして回転し流れていくのである。 ひとがひとの生をいとおしく思うということの具体的あらわれは、そこでのそれぞれのtruthに何ほどかの敬意を払うことだと思う。ドンキホーテ(なんという魅力的な男だろう!)にとって地平線にたちならぶのは、あくまで巨人の群れである。彼にfactをつきつけて「あれは風車だ」といっても、なにほどの意味もない。彼はそれで幸せになることが保証されるわけではないし、そういう行為は傲慢ですらある。つまり何がfactであり何がtruthであるかを議論することは・・・・うーん、なんというか悲惨だなあ。おそらく挫折とは、factにせめられてtruthを投げ出す瞬間かもしれない。「そうか、あれは風車だったんだ」と青ざめるドンキホーテはみたくない。

千日手論争に関連して、連想したのは一神教と多神教の風土である。近代科学がキリスト教世界に発生したのは、たぶんにキリスト教の影響がある。唯一神をみとめる心理構造と基本原則は何かということを追及する、科学的思考の相似性を認めるのはおいらだけではない。 それに対してたとえば中国の科学はおそらく生産現場が土台にあり、ひとつの神を求めないのでまっこと融通無碍である。 ということで急用で中断
 

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