2011年1月31日月曜日

芝不器男・・・猫跨ぎ

  一句目は、「永き日の」だね。これは小生の感銘の一句で、前に結社誌に拙文を書いたので、懐かしく転載させてもらう。まあこの新人賞の母体がどこなのか良く知らない。調べる気もないが。

「永き日のにはとり跚を越えにけり」 
俳句の一読者だった頃、ふと目にとまり不思議な気持がした。遠い日の懐かしい日向臭さと快い安堵感。一体これは何か。
俳句を始めて判った秀句の条件は、一句の奥行きが深いことである。かといってそれは所謂、景の大きい必要はなく、たとえば、掌の一粒の銀杏でもいい。日常のありふれた世界と二重写しの不可思議な虚像と言ってもいいし、隙間から垣間見えた、まるで予期していなかった非日常といってもいい。自明の因果関係や価値判断には無頓着であり、自在であり、心の底に落ちて、遠い記憶に鋭く感応するもの。つまりはこんな世界である。
鶏が前の畑と仕切になっている跚をふわりと越えた。鶏が去った後、うららかな光溢れる農家の午後が森閑とあるばかりである。これは幼児期の記憶なのか、これから見る夢の予兆か。夭折した青年俳人の心に降りた天啓とさえ思えてくる。  

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