息子一家が帰っていった。小さな孫たちの限りない運動量と好奇心にはへとへとになるが一種の感動すら覚える。それに比して、こちらは酒が入ると直ちに眠くなり、こっくりの状態。周りに呆れられる始末だ。アルコールが火付け役になって、かっと諸事万端に関心が広がり時に悪口雑言をまき散らしたあれは一体なんだったのか。これひと言、加齢の故か。とにかく酒量が減った。独りでしみじみ飲むという習慣が余りないので、自然酒類から遠ざかる。弱くなったと認めるしかない。
昨年の原発事故は、実際どうなることかと思い、暗澹を通り越した終末感に捕らわれた。自衛隊のヘリコプターが原子炉上空へよたよた飛んで来て海水をぶちまける映像は絶望感を通り越して滑稽感に満ちていた。そんな事を思い出す。まだ一年も経っていない。あのころのどん詰まり感から見ると、いまの「冷温停止」状態は、批判はあるが、まあよく此処まできたと感慨すら覚える。容易ならざる患部を抱えて日本は生きて行かねばならぬが、一病息災ではないが、増長、傲慢にならず、リアリズムを認識する契機として受容するしかあるまい。
北朝鮮の金正日の葬式が放映された。泣き叫ぶ大衆。あの刈り上げ頭のぶくぶく肥った若者を、崇高な領袖としてこれから押し戴き、皆付き従うそうだ。社会学の極北の存在、金王朝というには余りに奇怪、醜悪、喜劇。あきらかに二十世紀が生んだ信じがたい恐るべきカリカチュアだ。
人間はこのリアリズムの真逆の劇場にいつまで耐えられるのか。どんな演劇よりもすごい。演劇を愉しむ観客は見終わった後のカタルシスを予測しているが、こちらは終わるという想像力も禁圧されている。リビアの国民はカダフィの殺害を想像しえたのだろうか。
しかし、世界は信じがたい事柄に満ちているなあ、実際。なかなか老いなんて言っていられないか。
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