みなさん あけましておめでとうございます。と書きましたが、本当はおめでたいんだかなんだかよくわからん新年を迎えた。考えてみるとなんだか毎年、なんという新年だという怒りや愚痴やためいきをついて年が明けていたように思えるが、今年は特別ではないか。福島の決着は、結局は我々が死ぬまでは間に合わないだろう。つまりこれからは、じわじわと進む巨大な悲劇、あるいは進行形の犯罪と並走しておいらたちは年を取らなくてはならない。何ということだ。瞬間的な悲劇は、それがどんなに巨大でも時間とともに「忘却」という精神安定剤が作用する。 だが、放射能汚染はそうはいかない。忘れさせてくれないのだ。静かに時が過ぎて、平穏のうちに死を迎えたいと思っていたがどうもそういうわけにはいかないだろうと思う。
煤逃げについて。いい季語だ。だが、女房の愚痴などというものは、あれをまともに愚痴として聞いていたら体がもたない。 だいたいが、戦場に出てだ。頭を上げていたら弾が当たるではないか。そういう時はひたすら、じっと頭を下げて、弾の通り過ぎるのを待つ。日本語として聞いていてはいけない。論理を超越した単語の羅列は高等数学か、ゲーム理論の適用でもしないと解読できない。そんなことをするようなむだな時間は我々には残っていないということを自覚しておくことだ。そうすると、あたまをさげているうちに「あ、今夜の酒の肴はゆず大根と湯豆腐だな」などという、神のごときひらめきが降臨することがある。いいか。頭を上げると弾が当たるぞ。気をつけよう。
だいたいだ。掃除がきらいという老化の仕方がいかん。周囲を観察するとどうも掃除のすきな老人と、掃除のきらいな老人に二極化するようにみえる。後者が多いが、「まあごみで死ぬことはない」と口走ったり、「美は乱調にあり」などと理屈をつけて、飲み屋にかけこみ「おかみぃ あつかん!」などと叫んでいると、まあぼけるな。気を付けよう、西沢さん。もちろん前者がいい。あれは「掃除」と思うからいかん。自分の墓石へのみちのごみひろいと思いなさい。
で23日から、長崎への一人旅をすることにした。長崎で一泊して、外海地区を北上し、大村湾を一周して、美人の湯で名高い「嬉野温泉」に泊まってかえってくる。いまさら自分が美人になってもしょうがないが、美人とあえそうな混浴の宿などさがすか。ムヒヒヒ。
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