自殺の研究をしたことがある。きっかけは、勤務校の1年生の自殺だったが、1年かけていろんなことを調べた。 いろんなことがわかったのだが、ぎりぎりのことをいえば、実は自殺はいけないということを論理的に説明はできなかった。つまり自殺したいやつを、説得するのは極めて困難なのだ。キリスト教ですら自殺はいけないという話は聖書にはでてこない。おぞましいのは、中世のキリスト教が自殺は罪だといっているのだが、それもぶっちゃけいえば、死なれると免罪符や教会税なんかの収入がへるからだということだったらしい。自殺の歴史は興味深い。ナンセンスだが法律で自殺を禁止した国もあったのである。
自殺の中には、実はうつ病が原因のものがだいぶあるようである。おそらく半分以上は該当するのではないか。これは病気の結果なのだから、本来は正統的?自殺には区分できないだろう。ただし正確な割合はよくわからない。死んだ人にはアンケートはとれないので。したがって、うつ病対策は自殺防止の第一歩だということは、ほぼ専門家の意見は一致しているようだ。うつ病については劇的にこの数年、薬が進歩してきている。
精神分析的にいえば、自殺とは殺人である。ただ、加害者と被害者が同一人物なのである。したがって、自殺者は多くの場合、強い攻撃性を持っている。さらに自己否定感である。こんな人間は生きていてもしょうがないという気持ちと、攻撃性がいっしょになると自分に対して攻撃してしまう。だから、攻撃性と自己否定感をいかに低下させるかが問題になる。さらに、再生願望を指摘する意見もある。つまり生まれ変わり願望である。リセットしてやり直したいのである
自殺を止める説得の論理はないといった。では、最後の手段としてどうするか。それは「お前に死なれると、おれが困る。さみしくて悲しい。」という率直な思いをぶつけることだという。ここでいつも、「誰がために鐘はなる」の最後の詩を思い出す。
なんぴとも一島嶼にてはあらず
なんぴともみずからにして全きはなし
ひとはみな大陸の一塊 本土のひとひら
そのひとひらの土塊を 波のきたりて洗いゆけば
洗われしだけ欧州の土の失せるは
さながらに岬の失せるなり
汝が友どちや汝みずからの荘園の失せるなり
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て
みずからを殺ぐにひとし
そはわれもまた人類の一部なれば
ゆえに問うなかれ 誰がために鐘は鳴るやと
そは汝がために鳴るなれば
要するに、お前が死ぬことは私が死ぬことなのだという、この論理だけがなんとか、自殺者のこころに届くかもしれない最後の細いいとのように思っているのだが、それが可能なだけの人間関係の絆がないとだめかもしれないなあ。
このことにかかわるもう一つのエピソードがある。サンフランシスコの金門橋はかって自殺の名所だったらしい。今はできなくなったというが。で、橋のうえから飛び込むとき、太平洋に面した海側に飛び込むか、それともサンフランシスコの陸地が見える側に飛び込むか。圧倒的に9割以上がサンフランシスコが見える側に飛び込むときいた。これは、最後の最後まで人間が生きている社会とのかすかなつながりを、無意識に求めているのではないか、という意見がある。何となくわかるような気がする。
もう一つ恐ろしい想像。飛び降り自殺というのがある。あれ、飛び降りて、地上に激突するまでのわずかな時間に「あ、やっぱりやめときゃよかった」と後悔の気持ちがわくやつはいないだろうか。そういう瞬間を想像すると、ものすごく怖い。おそらく想像できるもっとも怖い空想のひとつだ。
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