2012年1月28日土曜日

で、つづき。隠れキリシタンのことなど・・・・逸徳

ある事象に出会ったときに自分が、無意識にとろうとする態度に、ひとつの傾向があることに気が付く。それは、個々の事象がいかに特異なものに見えたとしても、その底には何かしら普遍的法則が隠れているはずだ。それは何なんだ、という分析的な気持ちになることである。これ典型的な理系のさがかなあ。まあそれでもいいと思っているのだが。で、それを(よせばいいのに)人間の心にまであてはめようとして、もっと話を複雑にしてしまったのが心理学なのかもしれん。で、人間とはどういう存在なんだという古くて新しい問題にたちもどったとき、やっぱりこういう気持ちがおこってくる。隠れキリシタンに着目した動機のひとつはこれである。とにかく、ありとあらゆる拷問の百科事典ができるような弾圧を受けて、何十万というキリシタンが殺されても、棄教しなかったのはなぜなのか。そしてそういう行為の底に、われわれとしては人間のもつ根本的で普遍的な特性として、どういう原理を読み取ることができるのか。前から、信じるということはどういうことなのかということを考えて、隠れキリシタンの話を読んでいたので、一度現地にたってみたいと思っていた。五島にもいこうと思ったのだが、この時期にいくと海が荒れて船が欠航することもあるぞといわれてあきらめた。とにかくわけがわからん。おいらなんか気が小さいので、拷問するぞといわれたら、すぐ「すみませんすみません」と、泣きわめいてすぐ転向する。 で、牢屋から出たらすぐ元にもどる。こういう無原則的なのが好きである。こういうのを節操がないというんだろうが、権力者相手に節操を貫くなんて意味がないだろう。おそらくそういうやつもいたんだろうが、ただそういうのは歴史には残っていない。

長崎から、半島の西海岸を北上すると外海という地区につく。かっての隠れキリシタンの沢山いた地域である。明治の初めに禁教令が廃止されたとき、発見された隠れキリシタンは三つのグループにわかれた。ひとつはカソリックになって再洗礼をうけるグループ。もうひとつは、今まで弾圧を避けるために偽装していた仏教徒になってしまい、お寺の檀家になったグループ(ここで当然キリシタンではなくなる) そして、隠れキリシタンのままで信仰を続けるグループである。そしてこの地区の真ん中に遠藤周作の文学館がある。そして「沈黙」で知られているように遠藤周作はカソリックである。

外海の海岸にたって海を見ながら気が付いたことがある。この海の向こうは東シナ海であり、おそらく昔から、大陸からの船が流れ着いたりして自然に交流があったのかもしれない。つまりこの地域で生きてきた人にとっては、海の向こうとは「見知らぬ人々が住んでいるところ」であり、「なにか新しいものが海の向こうからやってくる」という感覚が自然に生まれていたのではないか。つまりは開放的なのだ。キリシタンがここに根付いたのはわからないわけではない。それにくらべれば、静岡なんて「海の向こうにはだれかが住んでいる国がある」なんて感覚は育ちにくい。海の向こうは滝になってなだれ落ちているのである。つまりわけのわからない世界なのだ。

なぜ、あんなひどい弾圧を受けて、キリシタンたちは信仰をすてなかったのか。現実が貧しく苦しいほど、ひとは何かを信じてそれに縋り付きたいのか。そもそも信じるとはどういうことなんだ。こちら岸の現実と、向こう岸の宗教が指し示す世界。それにすがることで、こちら側の苦しさを乗り越えようとしたのか。よくわからないが、だとすると満腹は宗教の敵だろうか。いやいや、こっち側で満腹感を達成しようとしたのが、革命という夢だったのではないか。だとすると革命と宗教は仲悪かったけど、ほんとは兄弟じゃあるまいか。で、満腹であったとしてもやはりある種の空虚感、欠落感は現代にもある。それを宗教は満たしてくれるのか。ある意味、宗教は壮大なだましの文化、だましの装置である。ただし、最後の最後までだまし通してほしい。臨終直前に「ゴメン やっぱ神様なんていないのよ。あの世はありません」といわれたら、これ究極の詐欺である。・・・てな妄想にとらえられながら、遠藤周作を読み直している。 とりあえずの結論。神はボトルの中にいる。

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