2012年10月31日水曜日

2012年ホロホロの旅(遠野編)・・・国兼

 新花巻から釜石線に乗って遠野駅についたのは1時ごろで、小雨がぱらついていた。髪を後ろに縛った、一見オカリナ奏者喜多郎風のタクシーの運転手(後で知ったが、菊地というこの遠野には多い名字の方で、実に親切、かつ知的雰囲気の人物であり、2日間本当に楽しい旅ができた一つの要因ではないかと思っている)の案内で6時近くまで遠野を案内していただいた。おかげで、一度は訪れてみたいと思っていた、柳田國男のそもそもの「民話」の原点である遠野を一望できた。
 何故遠野にこのような民話がたくさん語られていたのか疑問に思っていたが、海側の釜石と内陸の花巻のちょうど中間地(約30Kmtちょいで馬で荷物を運ぶ1日分相当らしい)で、旅人が相互にアレコレとお国の古い言い伝えを語り合っていたのかもしれない。

 興味深かったのは「カッパ淵」での河童の像である。その昔、清水 崑氏の週刊朝日でのカッパの挿絵を思い出すような、ユーモアな娘と子供を抱いた母親の親子の像があった(左写真はその娘の河童をしげしげと観察中の猫さん)。翌日の朝ホテル近くを散歩していたら駅前にも河童の群像があったが、遠野と河童は縁が深いのであろう。 この遠野で初めて見たのは保存されている古民家の形がL字形(曲り屋と呼ばれている:右写真参照) であることである。南部藩ではポピュラーな形らしい。 Lの下の短い横線の所に馬を飼っていたようで、馬の暖をとったり、家族の目が行き届くようにしたのかもしれない。昔から遠野は馬の一大生産地だったようで、「オシラサマ」という「遠野物語」に出てくる娘と馬の悲恋の民話にも出てくるように、馬はこの遠野の生活には切り離せない存在だったのであろう(オシラサマは蚕の神様でもあり、遠野でもかっては蚕も欠かせぬ生活の一部だったようである)。

 夜は菊池運転手お薦めの「かたり部」(何故この店が「かたり部」と云うのか分からなかっが、トイレに行ったら民話が流れていて納得)という居酒屋風で旅の疲れを癒し、元気に再会できたことを祝して乾杯!!!(下の写真はかっぱ淵近くの常堅寺にて今回参加した5名の雄姿)
                 

言葉・・・・・ホロホロ旅行記(2)・・・逸徳

山田町から南下して来て、陸前高田の街にはいったときには、そのすざましさに呆然とした。、この町は1778人、人口の7.63%の死者を出した。この値は宮城県女川町の8.77%についで二番目の高さであり、他の自治体と比べると段違いに多い。ああ、あの光景をみたら、さもありなんである。

 言葉について考える。「いうべき言葉がない」という表現は、対象の状態を正確に表現するのには、言葉の力が及ばないということをいっている。まったくその通りであるのだろう。現地にたち、海岸線まで見渡せる茫漠としたあのまったいらになった光景の中を吹き渡ってくる風の匂いと、空のどんよりとした光の中に身を置かない限り、どんな言葉をつかっても、あの状況をあらわし伝えることは困難であると思った。そうぎりぎりのところで、言葉は無力なのだ。そして一度はそのような言葉の無力さを肌で感じることは、いいことなのかもしれない。そうすれば、人は言葉に謙虚になる。おしゃべりが滑稽さにつながってくるのである。

 しかしである。やはり人は言葉によって生きており、言葉によって支えられている面もまた確かにあるのだ。言葉にもろもろの豊かなものを込め、それが共通の財産になるような世界。そこでは魂と言葉が共鳴しあい、言葉によって美しさや優しさが伝わる。ああ、それは見果てぬユートピアであろうか。

 そのひとつの対極にあるのが、政治の言葉だ。空虚な言葉の羅列は、人を傷つけ絶望させる。今の永田町がそうである。木下順二の「夕鶴」の舞台で鶴の精つうが、金に目がくらんだ愛するよひょうに対して「ああ、あなたのいっている言葉がわからない」と叫ぶ、美しく悲しい場面があるのだが、国民のひとりとしていえば、いまの永田町でかわされることばは、まさに「わからない」のである。国民は失望し絶望し、あきらめて、政治にかかわるもろもろを見捨てようとしているように見える。だがそのあとに来るものを想像すると本当におっかないのである。

そこで妄想する。あの陸前高田の被災地の真ん中に大型の仮設テントをたて、そこで臨時国会をやらせたい。もちろん傍聴人は被災住民である。あの空気の中で、そのようなまなざしの中で、政治家たちはどのような言葉を吐くのだろうか。あるいは、復興予算にハイエナのようにたかりつく官僚たちに1週間でいいから、復興工事のボランテイアをさせてみたい。ダメカナア。


2012年10月30日火曜日

猫跨ぎ句を鑑賞・・・褌子

・曲屋の三和土波立つ秋日かな
  特選。曲家のなかは暗い。かすかに煙たい。秋の外光が屋内にさしこみ、三和土のゆるやかな凹凸を私もみた。三和土のすみっこに大きな土でつくった平たい竃があった。
移築されるまえに、この寒い南部の地のこの曲家に大勢の人の寝起きがあり生老病死があったことだろう。家族同様に馬が飼われ、軍馬として「出征」し大陸から帰ってこなかったことだろう。
  そんなことは知らぬげに曲家の軒下に石蕗の花がのんびり咲いていた。
  曲家から帰るときにドライバーの菊池さんが「この木なんだかわかりますか」とみんなにきいた。豆科だ、ニセアカシアに似ているが木ささげ?槐か?…などと騒いでいると皀莢=サイカチだという。電子辞典を忘れたのでサイカチのサイは齋だなどと知ったかぶりをしたが、皀莢だ。20センチもある堅い豆の莢(さや)が黒びた褐色になって落ちている。女房にお土産に拾った。皀莢にはどんな花が咲くのだろう。千葉の館山にも有名な皀莢の巨木があるらしい。猊鼻渓でも船頭が川端の皀莢を紹介した。ここでも泡がたって石けん代わりに昔のひとが使ったとsaponinの話を船頭がした。

・五百羅漢の巌に還る秋時雨
   朝一番に遠野の五百羅漢に行った。山道をすこし登っていくと、苔むした岩が転がっていて、
   仏の顔が彫ってあることがかすかにわかる。秋色濃いブナや欅の林が静まりかえっていた。
   写真をとろうとしたが、今回の旅にカメラも電子辞書も家に忘れてきたことに気づいた。
・上り月遠野の暗き道広し
   「語り部」で呑んで旅館にかえるとき、誰も歩いてない真っ直ぐの道がかすかな月明かりのなかにどこまでものびていた。
・神のゐる気配のなくて秋の海
   こんなに静かに秋の日にきらきら輝いている平穏な海が、あの日に限って牙をむいたのか…
・サルビアのますます赤き駅舎跡
   陸前山田町だったか鉄路のわきにホームと駅舎の基礎だけが残っていた。コスモスが悲しげに風に揺れていた。
・草の実やピアニッシモの重機音
   瓦礫に立ち向かう重機の音
・むつつりと仮設を抱き秋山河
   宮古から大槌に向けて山越えするとき峠にたくさんの仮設住宅がみえた。
・腰板まで津波てふ店今年酒
   宮古の立派な鮨屋。小綺麗な店だったが腰板まで津波がきたときいて驚いた。
・沈黙の車内にひとつ秋の蝿
   陸前高田の惨状には息をのみました。準特選
・サルビアや鴎は海をふり向かず
   海猫と鴎の違いを菊池ドライバーに教えてもらいました。
   鴎は渡り鳥で冬期に日本にやってくる。
   海猫は鴎の一種だが渡り鳥ではないらしい。とすると三陸の海岸に群れ飛んでいたのは海猫か。
   掲句のサルビアの赤、海猫の白、海の青の対比。海猫もあの日の真っ黒に膨らみすべてを無慈悲に飲み込んだ巨大な津   波をみたはずだ

2012年10月29日月曜日

ホロホロみちのく・・・猫跨ぎ

 今回の旅行はずっしりと残るものが多く、まだ体の芯から疲れがとれない。まずは、プランニングをした小林さんに感謝しなければ。綿密な計画無しには今回の旅行の実りはなかったのだから。遠野交通の菊池さんのプロフェッショナルなスキルにも恵まれた。
繰り返し思い出すこともあるだろう。それぞれ開陳すればいいと思う。私は取りあえず、心に留まったことを数句。

・曲屋の三和土波立つ秋日かな
・五百羅漢の巌に還る秋時雨
・上り月遠野の暗き道広し
・神のゐる気配のなくて秋の海
・サルビアのますます赤き駅舎跡
・草の実やピアニッシモの重機音
・むつつりと仮設を抱き秋山河
・腰板まで津波てふ店今年酒
・沈黙の車内にひとつ秋の蝿
・サルビアや鴎は海をふり向かず

想像力・・・・ホロホロ旅行記(1)・・・・逸徳

今回の旅ほど印象深いものはなかった。何か魂の根底にふれるような瞬間があった。 体験をじっくりじっくりと反芻している。キーワードは想像力と祈りである。

深い森である。そこまでに至るのには、集落を離れて、森の中のけもの道のような細い道をよじのぼるようにしてあがってこないと、たどり着けない。人家はあたりにない。 静かに、森の匂いがつめたい風にのって流れている。一人の僧が、木々の間に散在している石に鑿をふるっている。刻むものは、衆生済度を願う五百体の仏達である。ああ、その刻音は天地に満ちるのであろう。きっと森のけものたちはそれを聞きにあつまってくるに違いない。しかし、どのけものも、僧をとりまいて何もせず、だまってその石を刻む音を聞いているのだ。 現地にたつと、木の間がくれに、僧をみつめる鹿のまなざしを感じるのだ。飢饉に倒れた数知れない、無数の民たちの成仏を祈って、僧は刻み、刻み、刻み続ける。・・・・ そうなのだ。この場所にたって自然に頭の中に浮かんできたキーワードは「祈り」である。(遠野市五百羅漢像において)

 祈りとは何なのだろう。人はなぜ祈るのか。かって、憲法9条を守る平和行進に参加したことがある。そのときに、一人の高校2年生の女の子と知り合いになった。行進中に交わした、彼女との平和をめぐる会話は本当に豊かなものであった。そして最後に、彼女が私に尋ねた。「このような平和行進の意味はなんでしょうか」と。 で、ぼくは答えた。「それは「祈り」ではないでしょうか。」と。そのとき、本当にそういう言葉が自然に頭に浮かんだのだ。で、その次の彼女の問いが衝撃的だったのだ。彼女はぼくに問うた。「では、祈りにはどういう意味がありますか。祈りという行為にはほんとうに力があるのでしょうか。祈りは本当に現在の苦しんでいるひとたちを救うのてしょうか。」・・・・彼女の真剣な問いに、ぼくは立ち往生して、混乱し、ごまかした。本当になさけない。だが今でもこの問いは頭の片隅にある。 祈りという行為が祈るひとを救うかもしれないのはわかる。 しかし、今この場で命を奪われていく、無数のか弱い民には何の意味があるのか。いまだに、このことはすっきりとわからない。

だが、である。そこで今回の旅でもう一つのキーワードに気が付いた。それは「希望」である。 この言葉は、安易にもてあそばれすっかり手垢にまみれてしまったが、こういう状況だからこそ、ぼくらはもう一度「希望」について、まじめに考えてみたい。

希望学というプロジェクトを主張している、東大の社会科学研究所・玄田有史教授は、東北大震災の綿密な現地調査にもとづいて次のような印象的なコメントを集めている。
 「夢は無意識のうちに持つものだけど、希望は、厳しい状況の中で、苦しみながら持つものなんですよ」
 「希望というのは、未来があるから使える言葉なんだよ」

そうか。現実から逃げないで、苦しみ格闘しているものこそが、未来を希求するプロセスの中で「希望」という言葉をつかうにふさわしい資格を得てくるのだ。であるならば、「希望」と「祈り」はほんとうに近い。 一枚の紙の裏表なのかもしれない。 

被災地の現実の中で「希望」について考えた。できることは何もないかもしれない。おそらく、ただ寄り添うことだけなのだろう。そして、こういう現実が、この同じ空の下にいまもあるということをしっかりと受け止め、忘れないように生きたい。そのことで、おいらももうすこしキチンとした地についた生き方ができそうな気がする。・・・・うーん、だめかな・・・・
                                                      続く

 



2012年10月28日日曜日

記憶力・・・・褌子

  椋鳥が穭田のうえを群れ飛ぶ季節になった。
 東北旅行から帰ってきて帚木逢生『閉鎖病棟』を読んだ。山本周五郎賞をうけたというだけはある作品。精神科医であってはじめて書けたのかもしれない。 いまは津島佑子『火の山―山猿記』を半分読んだところ。帚木作品よりはるかに重厚、大作である。富士山に寄り添いながら生きた甲府の有森家のひとびとの戦中戦後を生きた長い物語。有森家とは、津島佑子の母親つまり太宰治の妻の実家をモデルにしている。いっぽう、父親を愛憎こめて書いた傑作は辻井喬『父の肖像』。西武王国を一代で築いた堤康次郎を息子が赤裸々に暴いた。作家魂の業というしかない。
   さて、河野君は ↓の写真のようにスマートで垢抜けしていたから、私はてっきり関西出身、たぶん夙川とか芦屋とかだと思い込んでいた。国兼さんによれば北見北斗高校ときいて意外、道産子にもいろいろなタイプがいるんだね。八田君が住友ベークライトで河野君は鐘淵化学だと思い込んでいたが仁ちゃんによれば河野君は住友ベークライトからカネカに移ったのだそうだ。2003年理学部同窓会誌をためしにみたら八田君は住友電工である。河野君は住所不詳となっていてほかには何も書いてないので、彼はこのころヨーロッパで活躍していたのであろう。五本さんから河野さんの車でベルギーやオランダを案内してもらいとても嬉しかったと私もきいたことがある。
   河野君のマツダ高級車で六甲山まで送ってもらった関西ではじめてのほろほろ会の旅行だが、私が片野尾温泉、国兼さんが片野屋温泉と書いている。むろん武田尾温泉が正しい。またしても仁ちゃんの記憶力には脱帽。武田尾 が片野屋にどうしてなるのかね。私は武田尾 ⇒片野尾と一字だけあっている。国兼さんはビタミンCやセルロースの構造決定法など聡明な頭脳、完璧な記憶力で“勇気化学”一発突破したのに、仁ちゃんと私が意外にも悪戦苦闘したのだから人間の記憶力とは不思議なものだ。

函館通信189・・・河野君追悼・・・仁兵衛

 河野君の訃報に接し言葉が出てこない。あんなに元気があって酒をたらふく飲める彼の姿が脳裏を離れない。兎に角も面倒見がよく本当にお世話になった。

 昭和41年に卒業し彼は住友ベークに就職した。3年ぐらい居たと思うが老舗会社の堅苦しい人事に嫌気をさしてカネカに転職した。移るに当って学校(対北大)の事など心配し相談を受けたが相当悩んだ上決心をした。仕事は当時クレハと激しく競合していたMBS樹脂の開発で新しい職場は7割が中途入社者で占めておりのびのびと仕事が出来ていると言っていた。
 大阪での結婚式にも呼ばれたが活気に溢れたカネカの人達から名刺を沢山戴いたのを思い出す。
 そして皆さんも書いている93年に武田尾温泉で何回目かのホロホロ会をやりその酒の強さに驚かされた。しかも翌日車で皆を六甲山に案内してくれた。
 96年にはカネカベルギーの製薬部門会社の責任者になってブリュッセルに居た。丁度私も出張でオランダ・アムステルダムに行ったので連絡をしたらなんと車で飛んできてくれた。アムステルダムの船の運河巡りは忘れられない思い出である。友人宅でしこたまわいんを飲んだ後ブリュッセルに戻っていったのには驚かされた。

 もっとましな思い出があったのだろうが悲しさが先にったってしまいまとまらない。
 河野君、ゆっくり休んでくれ給え。こちらで別離の歌を一人静かに歌わせて貰うから。

2012年10月27日土曜日

河野 廸夫君を悼む・・・国兼

学生時代に河野君とは楽しく飲んだことも話したという記憶もない。お互い没交渉だったのだろう。今にして思うと残念な気持ちである。
彼は大阪の鐘紡化学?に就職した関係もあり、会う機会もなく時が過ぎた。二十数年ぶりにあったのが‘93年の大阪地方で初めて開催した片野屋温泉のホロホロ会である(アルバムで確認したところ)。その時も彼と何をお話ししたか記憶は定かではないが、彼が車で六甲を案内してくれ、駅まで送ってくれたことである。オヤ、と私の知らなかった彼の一面を垣間見た気がした。

 それから何年後だったか、彼から突然電話が来て「東京に出てきたので藤沢で一杯やろう」と。寿司屋でタバコを煙らしながら大いに飲んだ。彼がこんなにお酒が好きで、そのうえ強いのに驚いた。その時に初めて彼が北見北斗高出身の道産子だということを知り、また、彼も私が滝川高校出身だと知って「お前も道産子なのか」と、お互い本州から来た「垢抜けた」人間だと勘違いしていたことを知り、大いに笑った。彼がドイツで鐘化の技術営業畑の仕事をしていたこと、その時に五本さんが訪ねて来てアチコチ案内をしたことを知り、また、驚いた次第。大学卒業後もお互いに手紙のやり取りをしていたのだろう・・・。
  豪快なタフな生き方と同時に心温まる人間味を持った人間だったのだと、明日香でのホロホロ会をきめ細かく世話してもらった時にも同じことを痛切に感じた。私が大学時代に感じていた印象とは全く異なる人間だったことを知り、どうしてあの時代にもっと深い付き合いができなかったのかと不思議な気がする。

 今春の上野の花見の会の返信メールで「前立腺云々で小便がと…」というメールをもらい、私の友達にも何人か同じ病状の人がいたので「大した病ではないと、少し養生して快気祝いに飲もう」とかいう類のメールを送った。ところが、「もっとたちの悪い神経系と複雑に入り組んだ、現代医学でも分からない厄介なものらしい」という返信メールをもらい心配はしていたが、彼のことだからそのうち元気な姿をと思っていた。
 が、今年のホロホロ会(遠野経由岩手、福島の鎮魂の旅)から戻ってメールを開き、君の訃報を知りしばらくの間呆然としてしまった。70まで生きればマア―よしとすべきか、でも少し早すぎるのではと・・・。私も今年は脳こうそくなどして意外に早く君と彼の岸辺で桜を愛でながら飲める日がくるかも。いずれ、そのうち次々に訪れるであろうホロホロ会の仲間のために素敵な飲み屋を探しておいて欲しいものだ。 合掌

2012年10月26日金曜日

河野君・・・猫跨ぎ

  河野迪夫君の訃報に接し言葉もない。体調が思わしくないとは聞いてはいたが。彼一流の表現で病状を紹介する一文を見て、大変とは思いつつも、克服しつつあると漠然と予想はしていたが、残念だ。つい先日、前の会社の知人も癌と闘いながらも元気に句会に来ていたのに二ヶ月後、眠るように逝ってしまった。同じ繰り返しに慚愧にたえない。別れとはこんなものか。
青年の直情さをいつまでもなくさずにいた君だった。決断したことに後悔しない強さを我々には見せていたが、最後まで、苦悩、葛藤を我々に悟らせず旅立った。今にして二年前私の妻の死に際し、手を握りお悔やみを言ってくれた事を思い出す。そういう所作を忘れない君だった。それが、かくも早く旅立つとは。冥福を祈る。合掌。

再会と別れ・・・褌子

      河野君の訃報に驚きました。ご冥福をお祈りいたします。
  秋のほろほろ会旅行、昨日の夜帰ってきたばかりです。五人組で遠野物語の古里を訪ね、翌日は紅葉の山越えをして宮古にでました。田老地区、陸前山田、大槌、浄土ヶ浜、釜石、大船渡とまわり、とりわけ避難してきた市民でいっぱいだった市民体育館や市役所が津波に呑み込まれた陸前高田の惨状に息をのむ思いでした。翌日は猊鼻渓を舟で見物、逸徳さんが紙漉をやったあと宮沢賢治の東北採石工場を訪ねました。賢治は37才、同じ岩手の石川啄木は27才で亡くなっているんですね。
  小生は一関で諸君と再会を約して別れ、一本早い新幹線で東京に着き、神保町の岩波ホールでポーランドのアンジェイワイダ監督の『菖蒲』をみました。死をテーマにした映画で老女優のモノローグが粛然とつづきました。
  今朝、小蔵ひでをさんから電話がきて河野さんの訃報に本当に驚きました。
  クラ館まえで撮影した目がぱっちりした河野君の写真を掲載します(河野君のまわりの三人の美少年はだれかわかりますね)片野尾温泉だったか宿泊の翌朝、六甲山まで車で案内してくれたことを思い出します。五本さんの墓参りでは灘の復刻酒を持参。島根に行ったときも出雲鬼太郎空港まで車で送ってくれたことを思い出しています。ご冥福をつつしんでお祈りいたします。合掌

訃報・・・・逸徳

旅行で入手した、賢治の「農民芸術概論要綱」をパラパラとみていたら、次のことばが目にはいった。・・・・「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであろう。」 あれこれと考えながら、なんとなくメールをあけたら、社長からのびっくりするような知らせがはいっているではないか。しばらく唖然としていた。だって6時間ほど前に、また来年元気で会おうとみんなと東京駅で別れたばかりなのに。これはいったいどうしたことか。ことばがない。・・・・・ああ、とうとう二人目をおくった。さみしい。悲しいというよりさみしい。 大阪から島根への旅に、彼の車に乗せてもらい、いろいろ語り合ったのはついこの間のことだった。

今朝はよく晴れた。こんなぬけるような空のもとで宇宙を旅するのは、いいのかもしれない。ゆっくりいってくれ。 おっつけすぐにおいつくから、また会えるだろう。合掌。


2012年10月22日月曜日

秋の読書・・・褌子

    あああ♪ 遠野は~雨だった~♪ ♪
     いよいよ岩手県への出発の時間が迫ってきましたね。
   きょう、春にワカメの収穫ボランティアに行った石巻のひとから電話で相談をうけました。津波で家を失ない狭い仮設住宅の心労で隣のご主人が亡くなった。奥さんがフィリッピン国籍の人で子供が二人いる。生命保険がはいってくるが…という相続の相談でした。復興予算の流用にも怒っていた。
 毎日毎日、いろんな生活相談に明け暮れています。本当に世の中たいへんな格差社会になっている。小泉竹中の構造改革でどっと貧富の差がひろがった。張本人の竹中平蔵は大阪維新の会の最高顧問だそうだ。
 そこで気分転換に本を読んでいるが、10月は、加賀乙彦『帰らずの夏』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、手代木公助『夷客有情』、松本清張『霧の旗』のあと読み始めたのが、翰光『亡命―遙かなり天安門』、小森陽一編著『沖縄とヤマト』、津島佑子『火の山―山猿記』、孫崎亨『戦後史の正体』、帚木蓬生『閉鎖病棟』などなど。小森陽一は北大文卒でじつに面白い人。津島佑子は太宰の娘で同じく作家の太田治子とは異母兄弟だが両方とも実力派作家。血は争えない。硫黄島の栗林中将を描いた『散るぞ悲しき』の梯久美子も北大文だね。さわやかな読後感だった。
 盛岡在住の高橋克彦『北の燿星アテルイ―火怨』は今回の岩手旅行にむけて読んだが、安倍貞任・宗任を描いた『炎立つ』はもてあましている。文章の勢いが強すぎてちょっと疲れるんだね。年か。
  『陰翳礼讃』はのんびり寝ながら楽しく読めた。色気のはなしなどで西洋と東洋の比較が面白い。厠のはなしも生々しく書くんだが品がある。
 谷崎潤一郎は本当に助平だな。逸徳さんもかなわない。

2012年10月19日金曜日

伊勢は雨だった・・・猫跨ぎ

昨日まで俳句の仲間と伊勢神宮周辺の旅行をしてきた。神宮の早朝参拝では、雨に煙る深閑と鎮まる境内を玉砂利の音を聞きながら歩いて色々考えることが多かった。
 さて来週はhorohoro東北旅行。褌子氏の回顧談を見ながら、こう毎年重ねてくると、或る感慨に捕らわれるねえ。去年、酒田駅で皆と別れて、豪商本間家の本宅を見学した。家の海寄りの向きに建物を防護するかのように長い土蔵が建っている。海風に煽られた火の手から家を守る為と聞いて、酒田の大火は昔から何度も繰り返してきたことを改めて実感。ちょっと付け加えておく。
 「大道寺将司句集」に関し、作者について褌子氏のコメントがあった。関連情報を補足すると、大道寺らの三菱重工本社前の爆破事件の二年前に例の「あさま山荘事件」が起こっている。首謀者の一人、坂口弘は同様に死刑囚となったが、獄中で短歌を修め、歌集を出している。伝統の短詩型文学に、俳句と片や短歌の違いはあるが、共通して導かれていったのも不思議な気がする。日本人と文芸の関連において何かを示唆しているのかもしれない。またこういう事件が頻発したあの頃の時代性も考えたい。
  永山則夫は同じ東京拘置所に収監されていたが、獄内でもある存在感があったらしい。ある日の朝、永山の独房の方角から悲鳴と怒号が聞こえ、その後静かになった。その日に永山の死刑が執行されたのを後に知る。あれは刑務官に引き立てられてゆくときの怒号だったらしい。永山は生前、死刑執行には徹底的に抵抗すると言っていたとか。ところで坂口弘もこの拘置所に収監されているが彼についてのコメントは特にないようだ。
  40年近く独房にいて、死と隣り合わせにいる日々。その精神世界が俳句に如何に投影されるのか、想像を絶する。私は俳句は大きな器だと常々思っている。穏やかな日常詠はもちろんよし。大道寺の様な、怖ろしく底冷えするのもまた俳句なのだ。

horohorokai旅行の思い出・・・褌子

  おとといまで半袖だったが風邪をひきそうになり長袖ワイシャツにした。10月17日が夏と冬のせめぎあい、昨日から冬である。
  だいたい、今頃、ヒマジンばかりでhorohorokaiは旅行している。2006年10月20日快晴は飛鳥民宿を自転車で出発。酒船石、亀石などみてまわった。民宿のおかみさんはリラの君をふっくらさせたような品のいい方でしたな。諸君は牛乳のすき焼きで牛飲馬食してましたが落霜紅が庭灯にほんのり照らされているのをみて私はなぜか泪ぐんでいました。八田さん河野さんお世話になりましたね。
  翌年2007年10月20日は竹生島、長浜で鯖うどん食った。前日、木之元町でいただいた鯖鮓は美味、酒は北近江路の辛口。十一面観世音菩薩のS字曲線にうっとりして国兼さんが「観音の腰に目をやる老いの秋」の辞世の句を代作してもらいました。
  翌年10月18日はジャンボタクシーで紅葉の里塚霊園へリラの君の墓参り。河野さんの復刻酒を飲みながら都弥生を歌いました。紅葉のナナカマドの函館での前夜祭が楽しかった。仁ちゃんに案内されて函館北方民族博物館でみた蝦夷錦は忘れられない。
  2009年10月22日は新大阪で八田さんの出迎えをうけて高野山へ。山の上の宿坊は寒かったなあ熱い風呂にみんなで入りました。いただいた般若湯は「普陀落渡海」だったか?まさか、多分「熊野灘」だね。とにかく紀州の山々がよかったねえ。
  一昨年10月14日は島根県の真ん中あたりの石見銀山ちかくへ着陸するはずの全日空機が山口県境の石見萩空港に着陸してしまった。縄文の杉化石が見事。割烹料理屋で鰻を食ってお酒石見銀山をのみました。季節外れのシジミ汁を頼んだがシジミの数が少ないと国兼さんがこぼしていました。私は月明かりにきらきら光る宍道湖河口の湖面を渡ってくる祭太鼓に感動していましたが。
  去年10月21日は線量計で放射線測定しつつ新幹線で山形へ。山寺に登りましたね。小蔵ひでを社長予約の上品な山形キャッスルホテルでたしか会席料理みたいなもの賞味しました。酒は羽前銘酒「月山」。
  翌日は湯殿山。裸足で妙なご神体をありがたがり、注蓮寺で諸君はカメムシの悪臭にたえながら即身仏へ。私はジャンボタクシー高橋運転手の山形弁での身の上相談をうけながら小説月山の石碑など見ながら、あたりの紅葉を愛でながら、物思いにふけながら俳句にいそしんだが一句もできなかった。羽黒山入り口の食堂で食った草餅だったかうまいうまいと猫跨ぎさんが賞味しておりました。小生はほんの少しいただいた銘酒羽黒山で頬をぽっと染めてしまいましたね。鶴岡の藤沢周平記念館をみて酒田の超高級旅館に投宿。飲み屋「庄内藩」で食った焼き鳥とおでんが旨かったこと。庶民はこんな旨いものを食っているのか…脂ののった毛羽先を無心にほおばっているときの逸徳さんが一番幸せそう。
  翌23日は酒田土門拳記念館へ。売店で写真をぱらぱらめくっていたら山形美人の店員さんから「お客様のような方にはこの写真集が…」てなこといわれて13600円いちばん高い豪華写真集を衝動買いしてしまった。たしか小林さんといっしょに羽越線経由で逸徳師持参のウヰスキーをちびりちびりホタテの貝柱でやりながら帰りました。ほかの諸君は酒田からどこへ消えたのかね。わたしは羽黒山の千古の杉木立のなかの五重塔がいつまでもいつまでも脳裏から離れません。過去数十年のhorohorokai旅行でいちばん鮮明に記憶しているのは去年の山形旅行。やはり大震災と原発で苦しむ東北の人々への思いが深いからだろう。
  いつも詳しく調査してジャンボタクシーなどを手配してくださる小林さんありがとう。今年もよろしくお願いします。飲み屋で飲みたいもの食いたいもの背中流しなど何なりと手前どもにお申し付けください。

2012年10月17日水曜日

大道寺将司と永山則夫・・・褌子

  大道寺将司は釧路、連続ピストル射殺事件で死刑執行された永山則夫は網走の出身。
永山は、極貧の家庭で母にも捨てられ地獄の辛酸をなめた。入獄するまでは読み書きもできなかったが獄中から次々と発表される作品は文壇にも衝撃をあたえたと言われる。オウムの麻原も父親に毎日殴られて飯も食わせてもらえない少年期を送った。
大道寺は釧路湖陵高をでて大阪の釜崎で一年暮らしてから東京の大学に進学しているから永山とは違うようだ。ちなみ全共闘であばれまわった青年たちはめぐまれた家庭のおぼっちゃんが多いそうだ。
すめらぎを言寿ぐぼうふらばかりかな
胸底は海のとどろやあらえみし
  被害者への謝罪と懺悔の苦悶の日々の中でも、すめらぎ=天皇制と対峙する荒蝦夷(あらえみし)の矜恃をもっている。大道寺はアイヌ差別に深い関心があったらしく、アイヌ出身か被差別部落民あるいは在日朝鮮人の子弟だったのではなかろうかと思ってしまうが、やはり時代錯誤は否めない。このような感受性豊かな弱者に心優しい青年が反権力の矛先をまったく間違えて武力革命を妄想し大勢の市民を犠牲にした。
  全共闘運動の暴走をあおり、中国の文革を天までもちあげた当時のいわゆる“新左翼文化人”の責任は重い。いまの中国の反日暴力青年の“愛国無罪”にもだぶってみえる。

2012年10月16日火曜日

「棺一基」・・・猫跨ぎ

俳句つづきのついでに、今年春に出版され今も版を重ねている異色の句集を紹介してみよう。例のコラムからの転載。

今年前半に上梓された異色の句集を取り上げたい。
『棺一基 大道寺将司全句集』である。著者は、一九七四年八月三菱重工本社ビル爆破事件を決行した反日武装戦線「狼」のメンバーのひとり。この事件で死者八名、負傷者百六十五名を出した。逮捕、判決は死刑。爾後三十七年間、東京拘置所に収監されている。
逮捕後、事件を深く悔い、被害者への謝罪と懺悔の苦悶の日々の中から、俳句を紡ぎだし始める。独房での自己内省、悔恨と懺悔、母親への愛と死への哀惜、弱者への共感と国家や権力に服(まつろ)わぬ強い思い、これらを直裁に詠っている。
独房に約四十年、万葉以来の詩歌の伝統「寄物陳思」(ものに寄せて思いを述べる)とはまるで正反対の環境にいることを念頭に置く必要がある。そして彼は「俳句にいまや全実存を託したのだ。」(辺見庸) 千句をはるかに越える作品が一頁に七句掲載の句集にぎっしりと詰まっている。その一端に触れてみよう。梅雨空のさなか、読み進むうちに、その異様な迫力と暗闇に引き込まれるような息苦しさに何度も中断したことを申し添えたい。

・あかときの悔恨深く冴えかえる
・ぬかづくや氷雨たばしる胸の内
・ちぎられし人かげろふのかなたより
犠牲者の中には損壊の著しいものもあったという。それらは、幾度もまなうらに立ち上がり罪の反芻は果てしもいない。悔恨と懺悔の気持は、ことある毎に心を苛む。

・夏服の母は十貫足らずかな
・小六月童女の如き母なりけり
・母死せるあした色濃き額の花
母は幾度も面会に来た。その母も老い、慈母というよりいつの間にか労りと哀しみの対象となる。その母も逝った。継母であったという。

・棺一基四顧茫茫と霞みけり
・天穹の剥落のごと春の雪
・時として思ひの滾る寒茜
・モディリアニの裸婦の眇や冬の蝿
深深と心に下ろす垂鉛の果ては見えない。末期の目に全ては茫茫と霞むというのである。
ところで著者の心に『罪と罰』の〝ソーニャ〟の影はあるのか。実は欠片も認められないように見える。目に留まったのが掲句である。冬の蝿にモディリアニの裸婦のあの虚空を見るような目を重ねている。不思議な感覚であり、心の奥の思いは判らない。

・狼や見果てぬ夢を追ひ続け
・すめらぎを言寿ぐぼうふらばかりかな
・胸底は海のとどろやあらえみし
意表を突かれたのは、反国家、反権力いうなれば体制に服わぬ精神は、時を経て些かも変わりないことである。それどころか常に蘇り時に燃え上がる。自分の全存在が奈落へ崩壊して行く恐怖に立ち向かうのには、唯一この服わぬ精神を激しく揺り上げるしかないのか。崇高な何かに我が身を預けるという選択を肯んじないのであれば。

2012年10月13日土曜日

十月度仁句鑑賞・・・猫跨ぎ

  金子兜太が稔典句をどう評価していたかは知らないけれど、彼は俳句の革新を唱えていた人だから、こういう試みを悪くは言っていないと思うね。まあ、兜太先生がどう言おうと我々の感性で捉えればいいのでは。今や現代俳句をたばねる最後の人になったけど、そろそろ天に召される頃。彼亡き後、小物の群雄割拠という感じだな。

十月度仁句鑑賞。
・海峡を渡って行きし大花野
そうね、韃靼海峡を連想する。花野が本州へ南下して行ったということか。秋の花々は南下するんだね、なるほど。
・錠剤のアルミを抜けて夜長かな
アルミを抜けて夜長が面白いが、ちょっと意味が伝わりにくいとこがある。
・九月場所額の砂の零れけり
最後の一戦で額に砂を着けたのは日馬冨士だったか白鵬だったかどちらかな。力士にふと哀愁を覚える瞬間があるね。特選
・蚯蚓鳴く洗ひ終った鍋の底
作者独特の感性だね。
・穴惑ひお薬手帳忘れけり
穴惑いは自解してゆくときりがないとこがあるからこれはこれで了解。
・鳳仙花爆ぜて終らぬ戦後かな
いつまでも終わらぬ戦後という観念。まあ日本国憲法大事という読み方もあれば、もういいんじゃないという見方もある。人それぞれ。
・消息の薄くなりつつ石蕗の花
栽培種は勿論あるんだろうけれど、北海道に自生していたかな。見た記憶がない石蕗の花。そんなことに絡めて、人の消息を思っている。
・草紅葉三本立ての西部劇
大草原の西部劇を連想したということでしょう。疾駆する駅馬車。今頃三本立ての上映ってあるのかな。昔の思い出か。
・ふかし藷中は今でも戦時中
藷に戦後(我々は戦時中というより)の代用食を思う世代だね。
・赤ん坊の曖を出して寒露かな
曖は噯(おくび)のことね。ゲップ。寒露は二十四節気。北海道では初氷とも。冬到来の赤ん坊の表情。 準特選。

海峡・・・・褌子

   戦地から生還した金子兜太は、坪内稔典「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」などは、なんだこりゃあとなるのかもしれない。たぶん「サラダ記念日」がでたときにも戦中派詩人たちはそんな風に思ったことだろう。
  さて仁句を鑑賞する。
・海峡を渡って行きし大花野
  海峡と大花野に二物配合がある。イメージ鮮烈。いきなり特選ではなく準特選。
しかし、なにが渡っていったのかはっきりしない。弱った秋の蝶か。
掲句で、てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった、が頭にばーんと浮かんだ。
吉村昭『間宮林蔵』を読んでいたときもこの韃靼海峡をわたる蝶々のイメージが通奏低音のように離れない。金とヒマがあったら行って見たい海峡はやはり間宮海峡。たった七キロ幅だ。つぎはジブダルタル海峡。ロカ岬からアフリカ大陸を遠望したい。大昔、この海峡が破られて地中海に海水がなだれ込んだという。次がボスボラス海峡、つぎがメッシーナ海峡とかマゼラン海峡。もう行くのは無理だが。対馬海峡は行くぞ。本州佐渡には越佐海峡がある。函館だと津軽海峡。仁ちゃんに案内してもらった五稜郭タワーから下北半島が指呼のあいだにみえた。大間原発建設再開に函館市民が猛反対するのは当然だ。
「飢餓海峡」など海峡には哀愁がある。寒い風が吹いている。♪津軽海峡冬景色うたって水炊きでいっぱいやりたい季節になった。
・錠剤のアルミを抜けて夜長かな
ふむ。ちょっと退屈気味な日常のなかにも一点凝視している。
・九月場所額の砂の零れけり
  日馬富士だね。
・蚯蚓鳴く洗ひ終った鍋の底
庶民の生活の実感がある。季語と鍋と離れすぎの感もある。
・穴惑ひお薬手帳忘れけり
  穴惑ひという面白い季語を知った。やはり季語と離れすぎ。
・鳳仙花爆ぜて終らぬ戦後かな
特選。鳳仙花は無性に懐かしい。戦後と鳳仙花とには二物衝撃がある。
もう戦後ではないというキャッチフレーズで経済白書がでたのが昭和35年でしたか。しかし、まだ戦後は終わってない。それどころか新しい戦前のにおいがする。やっぱり日本国憲法の役割は大きい。
・消息の薄くなりつつ石蕗の花
準特選。
  ちょいとくたびれた石蕗の花には憂愁とか倦怠、旧懐もすこしあるね。だんだん消息  が薄くなってきたひとも多いなあ。寝ていてひょいと思い出す人もいるがそれだけ。
・草紅葉三本立ての西部劇
  草紅葉は好きな季語だ。が、季語と西部劇が反響しないのが残念。いやまてよ。
  一面の草紅葉の原野を駅馬車が疾走していく。なるほど。
・ふかし藷中は今でも戦時中
まったく共感する世代だな。子どもの頃のおやつはまずいふかし芋。今の焼き芋は旨いねえ。でも、やっぱり、ふかし藷と戦時中はくっつきすぎ
・赤ん坊の曖を出して寒露かな
   曖は曖昧模糊のあいですよね。曖を出すという言葉は私にはよくわかりません。
   

2012年10月12日金曜日

函館通信188・・・空っぽ時代・・・仁兵衛

 昭和20年以降我々と同時代の俳句をまとまって読みたいと思っているがあったらどなたか推奨本を教えて下さい。
 先日坪内捻典氏の本を話題に出したがもう一つ満足しない。それは金子兜太が捻典氏の句を空っぽな句だと評したという事を聞いたからかもしれない。二人には20歳の年齢差がありその間の歴史の変動が大き過ぎて兜太から見ればそう見えるのではなかろうか。しかし我々は我々の時代を生きる以外にないのだから黙々と句を作り、黙々と人の句を評しながら楽しんでゆきたい。
 そして如何に空っぽな時代でも時間は止まらず次から次へと自分の周囲は変ってくる。抵抗したり出来なかったり色々有るが今月も近作十句そっと置いてゆく。
 
 海峡を渡って行きし大花野
 錠剤のアルミを抜けて夜長かな
 九月場所額の砂の零れけり
 蚯蚓鳴く洗ひ終った鍋の底
 穴惑ひお薬手帳忘れけり
 鳳仙花爆ぜて終らぬ戦後かな
 消息の薄くなりつつ石蕗の花
 草紅葉三本立ての西部劇
 ふかし藷中は今でも戦時中
 赤ん坊の曖を出して寒露かな

憲法&蛇笏・・・猫跨ぎ

 きのう時間切れで舌足らずになってしまった。日本の現憲法がなんか嘘くさいという感じはずいぶん前からあった。そして大学の自治か。滝川事件や美濃部事件への反省と聞くと、ああ、また恐れと反省が始まったなあと反射的に思うね。
帝国憲法、治安維持法、旧日本軍と治安警察―いうなれば、日本のアンシアン・レジームが崩壊してから65年。いつまでその亡霊に捕らわれているのかと思うね。「戻るまい昔来た道」を専らテーゼにした社会党が消えてなくなってから久しい。もう昔話はいいんじゃないか。私見では現代のアンシアン・レジームは今の憲法じゃないかと思うくらいだ。国家意志とか戦争とかの話になると、恐れと反省の気分が前面に出て、柔軟な対応が出来なくなる。色んな意味で現実に即した憲法をそろそろ持つ頃だろうね。

飯田蛇笏ですか。くろがねも、すすきも、芋の露もみな好きな句だね。みな名句ばかり。もう大御所の古典だなあ。すっかりしゃぶられて、あまり実作の参考にならない。現実を詠うには現在只今の待ったなしの気持のほうが必要だからね。
山本健吉もいま余り読まれない。歴史的な役割は終わったのでは。尊敬はしているけれどね。

2012年10月11日木曜日

飯田蛇笏・・・褌子

    ノーベル賞から憲法に飛び火した。逸徳さんお願いバトンタッチします。
   きのう、小蔵ひでを社長の創立90周年祝賀会に祝電を送りました。
   俳人飯田蛇笏(1885~1962)没して十月で50年になる。山本健吉は蛇笏の作風を「俳句のもつ格調の高さ、正しさにおいて、ついに彼の右に出づる者は見当たらぬのである」と賞賛した。
 金子兜太編「現代人の俳句」から代表句15選を次に列記する。
 私は「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」が一番好きです。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」もいいねえ。
 諸兄はどの句が好きですか? 
   芋の露連山影を正しうす
   死病得て爪うつくしき火桶かな
   蚊のこゑや夜ふかくのぞく掛け鏡
   なきがらや秋風かよふ鼻の穴
   極寒のちりもとどめず巌ふすま
   たましいのたとへば秋のほたるかな
   寒雁のつぶらかな声地におちず
   をりとりてはらりとおもきすすきかな
   くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
   山の春神々雲をしろうしぬ
   児を抱いて尼うつくしき霊祭(たままつり)
   冷ややかに人住める地の起伏あり
   地に近く咲きて椿の花おちず
   秋の風富士の全貌宙にあり
   誰彼もあらず一天自尊の秋
   寒雁のつぶらかな声地におちず、を詠んでこの世を去った。芋の露連山影を正しうす、が代表句とされる。
蛇笏の志は四男龍太に引き継がれる
   鶏鳴に露のあつまる虚空かな  龍太

結局憲法だ・・・猫跨ぎ

  憲法23条の教えるところ大学は国家に超然とすべしという高説を賜った。その後生大事な憲法の精神がぎりぎり存在を試されたことがかってあったのかな。ない。ないならそれは単なる空証文にすぎない。遠吠えだよ。
 戦争?知りませんなあ。だからそうならないように諸国民の公正と信義を信頼して戦争を放棄したんです。もしもの場合はアメリカ兵が代わりに血を流して戦争してくれるんじゃないでしょうか。私達はのびのびと平和的研究にいそしみます。え?どこかおかしいですか? そう言っているのと同じに聞こえるが。

時間がないので最後の中国と韓国はノーベル賞は出ないの件。韓国は可能性あるね。朝鮮日報をときどき覗くが、日本の基礎研究の厚みを羨み、韓国の実利研究重視を反省する声が多い。この己を客観視する姿勢は貴重だ。いずれ近々出るのではないか。中国は今の独裁単相国家が続く限り貴説に賛成だね。

面白そうな話で・・・・逸徳

日本の科学史をどうとらえるかという、ある意味マイナーな話題に集中するとは、さすがみなさん理学部出身。 で、基本的問題。大学が国家目標に超然としていられるかというお師匠の意見ですが、確かにそれはなかなか困難だし、国家目標に超然としなかったからこそ、今まではいろんな問題がおこったのだと思う。そこで、歴史の反省の上にたって、ある意味学問的理性に信頼をおいて(ということばはややむなしいが)打ち出されたのが、憲法23条の「学問の自由」だろう。この条項の裏には滝川事件や、美濃部の天皇機関説などの歴史があったという。また、このような条項は海外では少数派だと聞いたことがある。だから、願望としていえば大学は国家目標に超然としていてほしいし、ある意味ひとつの社会的安全装置あるいは保険として近代国家は、大学にそういう自由を認めてきたのではないのだろうか。 だから「超然としている」のは重々困難ではあるが、だからといって「いられるか」と居直ってもらっても困るのである。なんか、美人がすっぴんで出てきて、くさい屁をひったのをみるような気分。
 西欧科学をアジアでは、きわめてはやくとりこむことができたのは、江戸時代までの日本が、文化的に相当高度なレベルまでいっていたという話がある。 イギリスの外交官が幕末の江戸で、町の本屋で職人が本の立ち読みをしているのを見て、驚嘆したというエピソードがある。当時のイギリスでは下層階級での識字率は極めて低く、おそらく当時としては日本は世界有数の高識字率だったらしい。 もうひとつ余談。幕末の江戸を舞台にしたテレビドラマ「仁」で、コレラ治療のための点滴用の注射針を江戸の職人がつくってしまうという場面が出てきた。 これはドラマの上の話なのだが、時代考証が行われていて、それを可能にする技術は日本にすでにあったというのである。面白い。日本の職人的技術は、一点に集中するとそれがどーんと掘り下げられて、神業にまでなってなってしまう。なかなか横に広がらず、産業として規模が拡大しないのである。
 ただし、ではなぜ西欧のような自然科学が日本に成長しなかったか。ひとつには、キリスト教の影響を指摘する意見がある。つまり一神教の精神風土は、基本原則を追求する自然科学の発展の思考のパターンによくあうというのだ。これもわかる気がする。面白いので勉強中。
 で、開国により西欧の科学技術のレベルに驚愕した日本人は、必死でそれにおいつこうとした。そのために、つまりは近代日本の科学技術史はその出発点からして、きわめて実用主義的な側面を持つことになる。プラグマティズムである。それに対して西欧では、技術は科学より一段下とみられていた傾向がある。だから世界最初の工学部が東大におかれたのは有名な話だ。 だがこのプラグマティズム的性格は一面で思想的な弱さを持っていた。 社会的要請に弱いのだ。役にたつのがつまりは存在理由を証明するというのだから。つまりは国家目標に超然としているなんて強さがあまりないのである。 超然としていたくったって、かわりによりかかる柱がなかなか見つからなかったのだろう。・・・・ したがって、突然飛躍するが、当分は中国や韓国からはノーベル賞は出ないという気がするのだが。

2012年10月10日水曜日

RE:ノーベル賞・・・褌子

石井部隊は話がつい、それた。ノーベル賞とは何の関係もない。
戦前と戦後は地続きだ。国の仕組みは変わったが、日本人は昔も今も大して変わっていない。
中国人韓国人からもそのうちノーベル賞受賞者がでてくるだろう。
ブータンからはちょっと当分受賞者がでそうにもない気がするが、国民の幸福度は抜群に高い。
ヨーロッパ発祥のノーベル賞とったとったと国際的権威づけをしてもらって毎回こんなに大喜びするのはひょっとすると日本的というかアジア的現象かもしれない。受賞者本人はいがいと複雑な気持ちかも知れん。

軍事研究・・・猫跨ぎ

 国が戦争をやっていたら大学が軍事研究に加担してゆくのは当たり前だと思うね。良し悪しではない。大学が国家目標に超然とできるだろうか。それはできない。若者を徴兵して戦場に送り出しているときに、大学は学問の世界、平和研究ばかりやります、戦争など関係ありませんということは出来ない。それが嫌なら大学を去るしかない。
だからといって石井部隊とか特殊な例をことさら強調すると大学の医学部は戦前みなそんなことばかりはやっていたような印象になる。
 それから中韓が戦前大変な目にあったからまだノーベル賞はとれないという言い方はどうか。明治維新から北里がノーベル賞第一回にノミネートされるまで34年しか経っていない。中国、韓国はそれぞれ建国60年は経っている。ではいつまで待てばいいのかな。なべて戦前を真っ黒な時代と決めつけ、戦後今に至るまで悪影響を及ぼしているという史観はそろそろいいのではないか。言い過ぎかな。

RE:ノーベル賞・・・褌子

  基礎科学には「見向きもしなかった」とはいってないが、特に昭和になってからの軍事技術偏重は確かだ。
  特に理科系のエリートが軍の技術将校にごっそりなっている。中川先生も海軍中尉で4エチル鉛の研究をしていた。貧乏な家庭から進学できた軍医養成学校もそういう面がある。いまの私立医大には前身が軍医養成学校が多い。日本の内蔵移植技術や血清学などのレベルが戦後高かったのは七三一部隊の生体実験などで腕を磨いた医学者が、戦後、各地の国立医学部にもぐりこんだからだときいたことがあるが真偽のほどは知らない。血友病患者のHIVを引き起こした元ミドリ十字は七三一部隊出身の医学者が戦後つくった会社。七三一部隊の医学的成果は米軍にそっくり継承されて、石井部隊長以下幹部は戦犯訴追をまぬがれた。これは事実。
  話がそれた。
  戦前、ノーベル賞自体が「欧米中心で日本のプレゼンスが低かったことが主因らしい」というのはまったくそのとおりだと思う。市川厚一は知らなかった。有名な人なんだね。
  野口英世がものすごく金にだらしなくて、ずいぶん借金を踏み倒していたときいたことがある。謹厳実直・刻苦勉励型の二宮金次郎的日本人だと思い込んでいたのでこういう話をきくとなんとなく愉快になる。


ちょっと待って・・・猫跨ぎ

  一寸待ってくれ。戦前は軍事技術偏重で基礎科学は見向きもしなかったとはどういう科学史観かね。湯川博士だって戦前の日本の基礎物理学の成果だろう。戦前、ノーベル賞に近かった科学者は沢山いる。医学生理学賞に限っても、北里柴三郎(血清学)、野口英世(梅毒病原体)、鈴木梅太郎(ビタミンB1)、山極勝三郎と市川厚一(人工癌)、稲田龍吉と井戸泰(ワイル病病原体)など。
北里は第一回の受賞の寸前だったことが後日明らかになっている。このころはどうしても欧米中心で日本のプレゼンスが低かったことが主因らしい。市川厚一は当時北大の大学院学生で東大に留学中だったとか。江戸時代にすでに西洋の科学を咀嚼する素地は日本にあって、文明開化のあと繋がったというべきだろう。

ノーベル賞・・・褌子

   中国と韓国のノーベル賞騒ぎ、そんなこともありましたね。
   アジアでは日本人ばかり受賞がつづいているが、やはりいち早く明治維新で近代統一国家形成に成功、西欧列強の植民地化をまぬがれたことが大きい。
   先日、安井算哲(渋川春海)の映画『天地明察』をみたが、江戸の半ばに正確に日食を予言している。明治に欧米の科学技術の輸入ラッシュがあったが、咀嚼し血肉化していく基盤があった。他のアジア諸国は欧米列強の植民地となり、中国も1840年の阿片戦争以来は半植民地状況、辛亥革命後も不安定、さらに日本の侵略をうけ、新中国建国後も文革などで基礎科学に国力をそそぐゆとりがなかったのではないか。ちなみに戦前の日本も軍事技術偏重で1901年ノーベル賞創設以来、湯川博士の受賞まで半世紀ちかく受賞していない。しかし戦後の平和の時代になってはじめて基礎科学に力をいれてから受賞者が輩出した。
   日本は近年、すぐ利益を生まないと基礎科学予算をどんどん削ってきているから順調に受賞者が輩出するかどうか。いずれ中韓、あるいはインドなどからノーベル賞受賞者がでてくるのではないだろうか。世界の頭脳がアメリカに集中するという現象もいつまでも続くとも思われない。
   文学賞と平和賞は不思議なところがある。なぜ川端康成と大江健三郎なのか、なぜ平和賞が佐藤栄作なのかわからない。科学分野の賞もこれだけ基礎科学が重層化国際化し裾野がかぎりなく広くなってくると、特定個人にだけ授与するのは難しくなる。山中教授もしきりにそのことをいっていた。その謙虚さに好感をもった。

欲しくて欲しくて・・・猫跨ぎ

 そういえば韓国の国辱もののスキャンダルがあったなあ。あの教授は名前も忘れたけれど、若いころ北大の獣医学部に留学していたとか。いまどうしているのやら。
とにかく国をあげてノーベル賞が欲しい。中国もそれ以上だろう。
 数学のフィールズ賞をめぐっての醜聞を思い出す。「ポアンカレ予想」をロシアのペリレマンがついに解いて世界を驚かせたときのこと。数年前の話だが、
ハーバード大学教授である中国籍のヤウは、中国政府に国立の数学研究所をつくらせ、中国数学会の学会誌を創刊して編集長になり、そこに自分の弟子がペリレマンの証明を丸写しした論文を(査読もすっ飛ばして)「ポアンカレ予想の最初の証明」と題して載せ、フィールズ賞を共同受賞させようと画策したという。ペリレマンが姿を消したのは、こんな不正のまかり通る数学界に嫌気がさしたという説もあるとか。インチキしても中国は数学でも世界のトップであると言いたいらしい。この恥知らずな根性は何処から出て来るのか。研究のオリジナリティとは真逆な精神構造だ。

しかし、山中教授にしても、鈴木、根岸両氏にしても、アメリカ留学中に研究の萌芽を見出している。根っからの日本の土壌からの成果ではない。若手に下働きをさせる今の研究環境は大いに反省すべきだろう。韓国、中国にしても大量の留学生をアメリカに送り込んでいる。超優秀な研究者も多いらしい。いずれ受賞者が出てくるのだろう。

2012年10月9日火曜日

ノーベル賞受賞に思うこと…国兼


  山中教授がノーベル賞をもらったことで日本の新聞やテレビで大きく取り上げられている。サイエンスの世界でのこの活躍は我々にとっても大いなる誇りでもある。でも、お隣の国は、またも日本にしてやられたと歯ぎしりしていることだろう。

 思い出すのは、韓国のソウル大学の教授が新しいドリーを作ったという10年ほど前のニュースを思い出す。韓国初のノーベル賞候補ということで韓国政府も大々的に資金を導入し、国民の熱い期待を担っていた。しかし、世界での追試試験で再現せず、やがて内部告発でデータが捏造されていたことが判明し、韓国のサイエンスに対する世界の評価が失墜してしまった。竹島に大統領が上陸した何ていうことをしても世界は何も感動しない。失墜し、面目丸つぶれの韓国のサイエンスの世界を立て直すことこそ重要であろう。
 また、数年前の中国初のノーベル平和賞での出来事を思い出す。この平和賞は中国に対する内政干渉だ…云々とか言って、軟禁状態の本人の授賞式出席を拒否する。更に、この平和賞を決定したノルウエーに変更を迫り、言うこと聞かないと貿易上の嫌がらせをする。およそ大国らしさというよりも、小国的な国権の発動で、これも世界の失笑を買ったことだろう。尖閣云々、南シナ海云々とダンビラを抜く前に世界が認めるスタンダードの世界で国威を発揮してほしいものだ。

 無人島的島をアレコレ国家のメンツをかけて、頭をカッカして争う時代ではないのではと・・・。むしろ人類にとって有益な役に立つサイエンスの場での日本、韓国、中国が競い合うことこそ増え続けるこのホモサピエンスの未来がかかっているのではと、そのような時代が早く来てほしいものである。


2012年10月8日月曜日

青春の蹉跌と倦怠・・・褌子

「俳句の向こうに昭和が見える」読んでみたくなった。
・春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎
この句はいいね。青春のアンニュイがある。
・三島忌の帽子の中のうどんかな
工場つとめのころ食堂で昼飯を食っているときテレビが三島の割腹自殺を報じた。何が起きたのかわからん妙な顔をしてみんなテレビをみていたが、切腹、介錯斬首ときいて血の海をおもって嫌な感じがした。盾の会の制服姿で市ヶ谷の防衛庁のバルコニーからの演説姿が印象に残る。
 三島由紀夫は非常な天才的才能の持ち主だったらしい。私は子供の頃どもったので悩んでいた。高校生のころ吃音僧が放火する『金閣寺』を読んでみたがわからなかった。中年になって『仮面の告白』を読んだがさっぱり面白くなかった。美少年を大きな真っ白い蜘蛛が搦め捕る妄想場面には辟易したものだ。
   いま、加賀乙彦『帰らざる夏』を読んでいる。敗戦による陸軍幼年学校の崩壊のはなし。面白い。

「俳句の向こうに昭和が見える」・・・猫跨ぎ

  仁ちゃんのこの前の投稿に坪内稔典著『俳句の向こうに昭和が見える』の話があったので読んでみた。結社誌のコラムの題材にさせてもらったのでお礼を兼ねて紹介させて貰う。ちょっと昭和を振り返ってみた。

坪内稔典著『俳句の向こうに昭和が見える』(教育評論社・本年六月刊)を読んだ。筆者は稔典氏とほぼ同年で、見てきた昭和の風景も同じである。同書に取り上げられた昭和(戦後)を象徴すると思われる幾つかの俳句を見ながら記憶を辿ることにする。

・安保通る西日に凶器めく人影   原子公平
昭和三十五年六月、日米新安保条約が成立した。テレビはまだ普及せず専ら新聞により国会周辺から全国に広がった反対デモ、樺美智子さんの圧死、ハガチー事件などを知ったが、四国の田舎の高校生稔典氏同様、北海道の高校生の筆者には遠い世界の話だった。掲句の「凶器めく人影」は同年十月の浅沼稲次郎暗殺事件を暗喩しているのだろう。戦前の匂いをただよわす岸信介は退陣し、忍耐と寛容の池田勇人が後を継いだ。愛想笑いの池田以降、稔典氏の言うように世論受けを常に考える政権運営が始まったように思う。池田といえば所得倍増政策であるが、好日十月号の「好日回顧」に〈陽炎旺ん農に倍増見込みなし 秋光〉(昭和三十六年五月号より主宰選)とあるように前主宰は早速噛みついている。
・春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎
奇しくも槍投げをやっていた下宿仲間が近くのグランドで同じようにひとりで練習していたのを思い出す。誰にも迷惑を掛けず邪魔にもされず黙々と青春の真只中にいるという姿だった。自分も恐らくそんな気分の中にいたのだと思う。
・三島忌の帽子の中のうどんかな   摂津幸彦
三島由起夫の割腹事件はよく覚えている。昭和四十五年十一月二十五日。知ったのは仕事を終えてE・マシアスのコンサートへむかう途中だった。特に愛読者ではなかったが大きな衝撃と喪失感に呆然となった。開演を待つとき会場の後ろの席から「あいつは右翼だからなあ」という訳知りの声が聞こえて無性に腹立たしかったことを思い出す。事の経緯と血腥い現場の詳細が後日報道された。「帽子の中のうどん」など誰も食べる気は起こらない。気味の悪さと生理的に受け付けない戦後二十五年を経た時代の気持ちを表現している。
・青嵐神社があったので拝む   池田澄子
神社にさほど信仰があるわけでもない。見たところ珍しい社でもなさそうだ。目に入ったからちょっと手を合わせるくらいはいいかという軽さ。かといって季語の青嵐に格別重きを置いて詠っているわけでもない。要するに中身のない空っぽの一句である。しかし昭和の自由にして実態の希薄な、時代の空気を的確に掬い取っていると言えるのではないか。そして独特のニヒリズムの匂いも明らかに時代のものだ。
・三月の甘納豆のうふふふふ   坪内稔典   
稔典氏といえば甘納豆句が有名である。実はこれは十二ヵ月の連作のひとつである。
・一月の甘納豆はやせてます
・二月には甘納豆と坂下る
・四月には死んだまねする甘納豆   と十二月まで続く。その十二月は、
・十二月どうするどうする甘納豆
「作者の思い、意図は聞かないで下さい。読者がどのように読むか、それが大事なのです」という。私の読後感は、これは中味のない空っぽの極致であり、何故かひたすら恥ずかしい。恥ずかしいという気持は、心ならずもこの時代と同棲してしまった後ろめたさなのかも知れない。という結語も恥ずかしい。

成熟社会?・・・褌子

   うちの近くの河童池にカワセミがいるというので朝早く、でかけた。
   なんとおじさん達が六人も三脚に大きな望遠レンズの高級カメラを並べて、池の中に立っている数本の杭にカワセミが留まる瞬間を待っている。こっちも20分くらい待ったがカワセミがたまに飛び交うだけで杭には留まらない。あきらめて一時間くらい周辺を散歩し、おにぎりを食べながら、ふと池をみると朝日がきらきらと反射している。その前面をカモが横切っていく波にも朝日があたって美しい。逆光であるが思わずシャッターをきった。↑の写真。女房が、ここではい一句と言うがそれがでてこない…
   ふたたび池を一周しながら栗を一升ちかくも拾った。またカワセミの撮影ポイントにいくとカメラおじさん達がまだレンズ自慢などしながらカワセミが杭にとまる瞬間を根気よく待っている。ひまなんだなあ。池のあっちこっちには鯉を釣るおじさんたちが何人も無心に釣り糸を垂れている。だいたい自分くらいの年頃か。とにかくみんな幸せそうでヒマだけもてあましてるんだね。震災も原発事故も遠い昔のことのよう。不思議に女性はだれもいなかった。
   

2012年10月7日日曜日

中国青年のメール紹介・・・・褌子

   二年間の日本留学をおえて上海に帰ったばかりの女性とメールのやりとりをしているが、本人の了解も得て転載してみる。「中国大使館に催涙弾」と中国テレビが報じたと書いている。中国ではこんなデマが出回っているのか。私がいぜん上海旅行したときに通訳してくれた。日本の大学院に留学して「中国少数民族トン族婦人の生活調査」という研究テーマで貴州省に調査で帰国中に、東日本大震災がおこり、上海の友達から10万円の義援金を集めてきてびっくりしたことがある。
■□■□■  おじさん 私はとても元気です。心配しないてください。 領土問題は最近確かにもめっていますが、おじさんが言った暴力事件は今月からもないです。国民の大部分は理性で、そのような暴力事件はただ少数のグループの人によって行われました。中国政府は先月からはっきりテレビで声明して、このような暴力事件がぜったい止めってください。国民の皆はぜったい理性的に領土問題を直面してください。さらに、暴力の人も逮捕されました。中国のテレビでは、日本での中国の大使館が催涙弾を投入されたと報道しました。私とおじさん同じに心配しています。私は平和の世界が欲しいです。国民と国民であろう、国と国であろう、永遠に仲良く付き合うことを期待しています。その希望は永遠に変わらないです。私はもちろん 日本と中国がいつまでも平和で仲のいい隣人であるように両国民の永遠の幸福の ためにがんばります。私はおじさん、アパートのおばちゃん・おじさん、私の日本の友たち皆、大好きです。おじさんは正直な人で私はすごく感心しています。これから、おじさんと一緒にお互いに日中友好のみならず、世界平和のために、お互いに頑張りましょう

2012年10月6日土曜日

栗拾い・・・・褌子

   本当に涼しくなりましたね。庭のキンモクセイも花を咲かせ芳香をまきちらしています。
   市原市五井と養老渓谷を結ぶ小湊線の里見駅ちかくの線路ばたにクリがたくさん落ちているというので、拾いにでかけました。10時のデーゼルカーが通るまでの30分ちょっとで一升くらい拾いました。近所のおじさんがやってきて「クリ拾うのはかまわんが、線路に栗のイガを置くと、車輪がイガの油で滑るんだ」と、わざわざ竹箒で掃いてくれました。親切だね。
  線路脇はいまは曼珠沙華が咲いているだけですが、春は一面、菜の花になるのでカメラマンが大勢やってきます。10時に二両の赤いデーゼルカーがやってきて、運転手も車掌さんもうら若い女性でにっこりと手をふってくれました。
  帰るとテレビでは上高地の紅葉をやっていました。6月に野麦峠の歴史探訪に行った帰りに上高地によりました。新緑のなかを大勢の観光客が散策していましたが、ほとんど中国人だと知って驚いたことを思い出しました。千葉の大学に二年間留学して先日、上海に帰ったばかりの女性からメールがきて、日本車を焼き討ちしたり、日本料理店に投石したりすることは中国の恥だという世論がインターネット上でけっこう飛び交うようになってきた。もうあんなひどい暴力騒ぎにならねばいいんだけどと願うばかり。暴力行為をおこさない日本の青年はえらいですね!という内容でした。
―――――
  ひと昔前には日本でも荒れ狂っていたのだが…。東京官邸前の反原発デモは三回参加してみたが、家族連れ、恋人連れで大勢来ていたからじつに平和的。非暴力・シンプル・持続性がモットーだという。
  仁ちゃんの函館の目と鼻のさきの大間原発建設再開反対の声も官邸前でも大きくなっている。このような流れが日本をすこしづつ変えていくかもしれない。
   

2012年10月4日木曜日

いい人とは・・・猫跨ぎ

  庶民レベルでは皆いい人だとは中、韓、日に限らない当たり前の話ではないか。ロシア人も人の良さ丸出しが多い。イスラエル人だってアラブ人だって個人的にいい人が多いんだろう。しかし底知れぬ殺し合いを果てしなく続けるのが人間社会の複雑なところではないか。だからそういうレベルの話と外交とは残念ながら別だ。嘘も百回つけば本当になる。中国はアメリカの有名なコラムニストを丸め込んでいる。それが自然にアメリカ世論になり国連の常識になる。そういう作戦に出ているから、庶民レベルの交流に期待する時期ではない。ねばり強い外交対話は勿論だが、今の情況に会わせることも必要だ。  共産党の主張は前から読んでいるが、正論だと思う。それを国際世論に繰り返し言うべき時期なんだろう、今は。胡錦涛が待ってくれと言ったのを野田が聞かなかったというのは、野田の失敗と責める人がいるが、都から取り上げて国有化することでむしろ事態の沈静化を図ったのではないかと私は思うね。全くボタンを掛け違えてしまった。掛け違えさせたのは外務省の認識の浅さだ。勿論、事の原因は都知事の愚かなスタンドプレーにあることは言うまでもない。

若干の訂正・・褌子

   先日私が書いた清国の漁船が尖閣に漂着し、送り返したら清から日本政府に感謝状がきた。日清戦争のまえのはなしというのは間違いなので訂正する。
   正しくは、1919年(大正8年)に福建省の漁船が遭難したときに当時の中華民国長崎駐在領事から日本政府に届けられた感謝状。1912年に孫文らによる辛亥革命で清は倒れ中華民国となっていた。中国側が尖閣諸島を中国領土と考えていなかった何よりの証拠で、日本共産党が赤旗に2年前に紹介し反響を呼んだ。中国側からの感謝状には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島」と明記されている。1895年(明治28年)に日本がどの国の支配もおよんでいない「無主の地」を領有の意志をもって「先占」して日本領土に編入してから、1970年までのじつに75年間、中国は一度も異議も抗議もしていないことだ。これが中国側主張の最大の弱点。
   明治27年の日清戦争後の28年4月の下関条約で、日本が尖閣を奪い取ったと中国は先日国連でいきなり演説したが、下関条約で日本は遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲させたが尖閣諸島のことはこの条約にはまったくふれられていない。
   日中のあいだに「領土問題は存在しない」などと中国と外交的対話を拒否していながら、(胡錦涛が野田に国有化はやらないでくれと言ったばかりの二日後に)都知事の挑発に乗ってあわてて国有化したらこの騒ぎになった。
   国兼さんがいうようにねばり強く何十年かけても外交交渉で解決するしかない。それが日中両国民のいちばんの利益になる。
   隣国とは庶民同士でなかよくつきあいたいね。私は「ちば中国帰国者支援交流の会」の事務局長やっている関係で、いろいろな中国人ともつきあっているが、知る限りでは実にいい人たちばかりだね。韓国人ともソウルで酒も飲んだし、親しい在日のひともいる。みんな苦労しているから立派な人が多いなあと私は日ごろ思っている。まあ日本人も中国人も韓国人も好いひともいれば嫌なひともいるということだ。人間の喜怒哀楽などというものは昔も今も、またどこの国にいっても大して変わらないのではなかろうか。そんな気がしている。

RE:西域夢物語・・・褌子

   国兼さんの西域夢物語をしんみり読みましたよ。
   ・・・じつをいうと小生も八月末に京都の山奥の火祭をみにいったときに、嵐山界隈を炎天下歩きすぎて汗だくになり、以来体調がよくないので一ヶ月も朝の散歩をさぼった。逸徳さんとの温泉三昧で元気になったばかり。
   そのまえに体のゆらゆら感がありCTをとったが医者はなんでもありませんという。それでMRIをけちっているが、国兼発言でまたMRIやるべきか迷いがでてきた。西域夢物語を拝読してひょっとしたら、こちとらも脳梗塞の前兆現象では?などと内心うたがっている。氏の外国旅行中止も賢明だね。タバコはやめる酒はゆっくり味わって飲むべしだ。
   ほろほろ会の旅行では、ゆっくり温泉にはいり、血液をさらさらにする良質のタンパク質を肴に、いい酒をちびりちびり味はい早寝早起きしましょう。
   (わがやでは年中、亭主をおいて山などにいっている女房が先日、山梨の低い山で足がつって山道で倒れ込んでしまった。よそのグループの女性からもらった岩塩と大量の水を飲んでやっと歩けるようになったばかり)
   国兼さんが紹介する伊丹万作のことばは、「敗戦後、軍部にだまされた、だまされたと一億こぞって騒いでいるが、だまされたという戦争責任もあるのだ…」という趣旨だったとおもう。伊丹万作「戦争責任者の問題」をインターネットで検索するとでてくる。敗戦の翌年に書いていることに驚く。長い文章であるが気に入ったさわりを抜き書きすると、
   ―――――「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
   ―――――
   夢のエネルギー原発にだまされ、一番公平な税金だと消費税にだまされ、規制緩和・民活にだまされ、オスプレイ安保繁栄論にだまされ、こんどはTPPにだまされ…とか。小泉旋風にだまされ民主マニフェストにだまされ、いまも隣国をシナ人・第三国人とよぶ都知事の日本人優越論にだまされ、またまた大阪橋下維新にだまされ…などと勝手きままに読むと面白い。それにしても「中国やっつけろ!」「軍事力最新比較。自衛隊が中国軍圧倒」などという週刊誌広告は日本車焼き討ちの中国暴力青年と同レベル。暴支よう懲・天にかわりて不義を討つ・・・ 『母べえ』という山田洋次の映画を思い出した。おれたちが生まれた頃のつい先日のはなしだ

2012年10月3日水曜日

驚いたよ、お大事に・・・猫跨ぎ

  ちょっと只ならぬ知らせだねえ。驚きましたよ。そこそこ大きい跡が見つかったとは。MRI検査は最近よく聞く。ついこの前の句会で句材にもなったり。先日褌子氏が受けて無罪放免だったように記憶する。いつの間にか我々も身近になったんだなあ。
 しかし酒、煙草を半分にしたとはいささかユルイ。優等生とは言えないのではないか。酒はともかくタバコは完全禁煙すべきじゃないかい。煙草はほかに膀胱癌の主要因でもある。前の会社の知人がヘビースモーカーだったが、これが見つかり、治療中。煙草は完全に止めた。跡を引かなくて幸いだった。何はともあれ、お大事に。

西域夢物語…国兼

本来なら今頃から9月22日から十日間の敦煌、ウイグル等のシルクロードの旅を思い出しながら、井上靖の「西域物語」を見習った新西域物語的旅日記を書き始めていたはずである。
 所が、9月の5日ごろから何故か言葉が素直に出てこなくなった(俗にいう、ろれつが回らなくなるという)。おかしいなと思って物置から血圧計を探して測ってみたところ、収縮期が180を超えていた。6月の年1回の高齢者健康診断の際には140台であったのに・・・。思い当たることもあって(今年2番目の熱暑日だった8月30日にボランティアでお年寄りの家の草取りを2時間汗だくでやったことである)、お医者に行ってMRIを調べてもらった所、ごく最近発生した脳梗塞の跡があると写真を見せられた。古い小さな薄暗い痕跡と共に、明るい大きな痕跡が見えた。この状態では気圧変化の大きい海外旅行は止めた方が無難です・・・といわれ、ちょうど尖閣問題も大きく浮上し、カミさんも中国旅行に嫌気がさしたようで20%ペナルティーを払って中止にしてしまった。楽しみにしていた西安の兵馬俑、敦煌の莫高窟の仏像やタクラマカン砂漠の裾を走る夜行列車の旅等々もみな夢物語になってしまった。残念としか言いようがない。目下、朝には高血圧と血液サラサラの薬を飲み、朝夕2回の血圧測定と、更に酒とたばこも半分以下に抑え、夜も10時前後には寝るという、実に優等生的生活を送る羽目になってしまった。
 以前、70過ぎたら気ままに、思うように生きようと書いたことがるが、己の劣化モードを目のあたりにすると、不思議なものでもう少し元気な身体でいたいものだと、彼の岸に逝くのはまだ早すぎるのではと欲が出てくる。お釈迦様の言う「我執」とでもいうのかね?これは?

 話変わって、尖閣に関して思うこと。何なのだろうか、この異常な雰囲気は。「実効支配」をし続け、中国船が来たら少しずつ日本の法律にとっとり厳しく法の下で裁いていくという、50年、100年のスパンで発想して欲しいものだ。それを都が買うとか言うおかしな人間のアジテータに揺さぶられて「国有化宣言」、「ヤッタぜベィビー」とほくそえんでいる人間も中に入ることだろう。週刊誌等も昔の清朝時代のイメージから脱却できないのか、「中国何て・・」、「毅然たる行動」をなんていう論調の愚かな事をアレコレと書き立てて煽っている。
 かって、柳条湖事件で中国の力を侮り、泥沼に入りこみ、やがては「中国相手にせず」なんていう向こう見ずの愚かな発言をし、トドノツマリは鬼畜米英と絶叫してアメリカと戦かった歴史を思い出す。戦後「私は騙されていた」という同国人に対し「騙された人間も同罪である」と、伊丹万作は述べていたようだが、同じ歴史の繰り返しをしてはいけない。

The Eleven- Headed Kannon sculptures of the 0mi region ・・ Konshi

  この↓ブログを愛読していると称する女性から、日本橋の三井記念美術館で「琵琶湖をめぐる近江路の神と仏・名宝展」やっているわよ知ってる?、との電話が入った。
  向源寺の十一面観世音菩薩様は地元の保存会の抵抗でもう門外不出みたいだが、他の十一面観音様がはるばる東方に出向いて来ていらっしゃるにちがいないと早速拝観にでかけた。
 JR新日本橋駅からしばらく歩いて三井本館となり八階の重厚な美術館に入る。1200円の入館料が古稀なので900円である。ありがたいようなうれしくないような妙な気持ち。
 薄暗い照明のなかに延暦寺、三井寺はじめ百済寺、西明寺、金剛輪寺の湖東三山などの仏様が鎮座ましましている。
 十一面観音立像は長福寺、飯道寺、円満寺、櫟野寺のいずれも湖南の古刹の四躯があった。飯道寺の観音様は井上靖『星と祭』にもでてくるが御対面ははじめて。飯道寺いがいの観音様は、S字状にわずかに腰をくねらせている。かつて國兼さんが向源寺の観音様に艶殺というか悩殺されてしまったあの御腰の妖しげなカーブである。
   が、私はむしろ快慶作の石山寺大日如来座像などの薄目をあけたarchaic smileというか、ほのかに口許にただよう微笑に感じて釘づけになってしまった。孔子様がいう、七十にして心の欲するところに従って矩を喩えずの心境といえようか…
   先日の蟹場温泉の森閑とした露天風呂でご一緒した逸徳さんの場合などはどうだろうか。

単相国家・・・猫跨ぎ

  外交はある意味で握手をしながらテーブルの下では本音の小競り合いをやっている世界だ。日中の間でそのテーブルクロスが外れてまる見えになって、その上握手の手も振り払ってしまったのが今回の事態だろう。どこかで冷静になる事態を待つしかないが、国連の場でドロボー呼ばわりの連呼を聞くと、彼等自身がどこに落とし所を見ようとしているのか皆目分からない。
  当分無理だね。経済や人の動きがグローバル化しもう国境はなくなると一方では言いながら、寸土を巡ってこれだけの大騒ぎになる。色々な分野のものの考え方が既成概念を打ち破る方向にどんどん進んでいるのに、近代国家の版図の概念が一周おくれか二周おくれかで全く昔のままだ。それが大国の中国周辺に集まっているのも困ったものだ。中露だっていつ火が噴くか判らない。ダマンスキー島は懐かしい。確か中国名は珍宝島とか結構な名前だった。今隣国はロシアではないが、ウィグル自治区自体がイスラムの勃興と絡めていつどうなるか。中印国境も今は休戦状態のはず。チベット情勢次第でどうなるか。中国にしてみればどこもそこも居丈高になるしかないということなんだろう。おとなしくしていたら崩壊する。
  しかし、文化交流も一方的に遮断するとはなあ。北京では日本の新聞雑誌はみな没収らしい。あのデモも政府の禁止命令でパタと止んでしまった。実に怖ろしい。こういう単相の視点しか許容しないものの考え方。結局、国内的には強大な治安警察、対外的には軍拡に走って実力で押しまくるという単純な発想しかなりえない。周恩来の深沈とした眼差しが懐かしい。(因みに大江健三郎らは、日清、日露戦争が原因だ。まず日本があやまれと緊急アピールを発表した。デモもするらしい。相変わらずだな。しかし当局の弾圧など起こりようもない。)

2012年10月1日月曜日

観音様、石塔寺など・・・褌子

   渡岸寺(向源寺)の十一面観世音菩薩はよかった。猫跨ぎさんに紹介された井上靖『星と祭』に刺激されて石道寺や鶏足寺、医王寺などの十一面観音もみてまわった。福井の小浜ちかくの羽賀寺にもみにいったことがある。
  湖東の古寺詣で一番感動したのは石塔寺。小さな寺だった。夕方蝉時雨のなかを石段を登ってゆくと石塔があった。韓国の安東、慶州、扶余などでみた石塔とそっくり。渡来人たちが望郷の念にかられて建立したにちがいないと思った。
  司馬遼太郎『韓国(からくに)紀行』のなかにもでてくるが、人びとは韓半島と日本列島をいったり来たりして、さらに北からも南からもやってきて混血を重ねて日本人の祖型がだんだんできあがった。
  近代統一国家の形成でめんどうな領土概念がはじめてでてきた。たかだか百数十年かそこらのはなしだ。
  吉村昭『間宮林蔵』を読んでいておやおやと思ったのは、李氏朝鮮は鬱陵島のことを竹島と呼んでいた。鬱陵島は良質の竹がたくさんとれたので竹島と呼んだのだ。だからいま争っているずっと東の竹島は李朝は全然関心がなかったというか漂流漁民以外知らなかったようだ。1905年に日本は竹島を島根県に編入した。その5年後に朝鮮全体を植民地にしてしまい李朝は滅亡する。韓国は竹島編入は植民地化の一環だと主張しているがやはり無理がある。(もっとも日本海という呼称は李氏朝鮮の地図では東海とか朝鮮海となっている)
  清国は沿海州を「実効支配」していた。『間宮林蔵』によれば樺太の小数民族も清国人に獣皮を売って生計をたてていたのだから1689年のネルチンスク条約以降も樺太もずっと清の勢力圏にあったことになる。が、清国が衰えロシア帝国が沿海州、サハリン、カムチャッカ、千島列島にも進出してきた。明治8年、日露両帝国が平和的に樺太千島交換条約を結んだ。この原点にかえれば千島列島はすべて日本領土である。ちなみにダマンスキー島で武力衝突もした中露は近年外交で話し合っていまは領土問題は全くない。  
  尖閣に漂着した清国の漁船を手厚くもてなして明治政府が送還したら、清国から感謝状が届いていまも残っている。日清戦争のまえのはなしだ。しかし尖閣は中国領だと主張する以上、日中両国には領土問題があるのである。だから理をつくして話し合うしかない。それが外交というものだ。領土問題はないから話し合わないという民主党政権は自縄自縛におちいっている。
  地球人口は爆発的に増えているが、陸も海も資源も有限だとわかってから、ややこしくなってきた。

十一面観音さん・・・猫跨ぎ

 しばらく湖東の十一面観音さんにご無沙汰だけれど、併せて思い出すのは、この像を守るために当時の農民がとった行動のことだ。向源寺の境内にある土盛り。周りを標縄で囲ってある。兵火を避けるために、穴を掘って像を埋めたその穴の跡だという。他に川に横たえて隠したという像もあって、腕が失われて全体に損壊のあとが著しいが今でも大事に保存されている。この農民の必死の行動は、当時信仰が内発的なものに成熟していた証左だろう。そういう思いの対象であればこそ、今も深沈とした内面性を示すものとして我々のまえにあるのだと思う。今年は冬にでも再会したいものだ。