2012年10月31日水曜日

言葉・・・・・ホロホロ旅行記(2)・・・逸徳

山田町から南下して来て、陸前高田の街にはいったときには、そのすざましさに呆然とした。、この町は1778人、人口の7.63%の死者を出した。この値は宮城県女川町の8.77%についで二番目の高さであり、他の自治体と比べると段違いに多い。ああ、あの光景をみたら、さもありなんである。

 言葉について考える。「いうべき言葉がない」という表現は、対象の状態を正確に表現するのには、言葉の力が及ばないということをいっている。まったくその通りであるのだろう。現地にたち、海岸線まで見渡せる茫漠としたあのまったいらになった光景の中を吹き渡ってくる風の匂いと、空のどんよりとした光の中に身を置かない限り、どんな言葉をつかっても、あの状況をあらわし伝えることは困難であると思った。そうぎりぎりのところで、言葉は無力なのだ。そして一度はそのような言葉の無力さを肌で感じることは、いいことなのかもしれない。そうすれば、人は言葉に謙虚になる。おしゃべりが滑稽さにつながってくるのである。

 しかしである。やはり人は言葉によって生きており、言葉によって支えられている面もまた確かにあるのだ。言葉にもろもろの豊かなものを込め、それが共通の財産になるような世界。そこでは魂と言葉が共鳴しあい、言葉によって美しさや優しさが伝わる。ああ、それは見果てぬユートピアであろうか。

 そのひとつの対極にあるのが、政治の言葉だ。空虚な言葉の羅列は、人を傷つけ絶望させる。今の永田町がそうである。木下順二の「夕鶴」の舞台で鶴の精つうが、金に目がくらんだ愛するよひょうに対して「ああ、あなたのいっている言葉がわからない」と叫ぶ、美しく悲しい場面があるのだが、国民のひとりとしていえば、いまの永田町でかわされることばは、まさに「わからない」のである。国民は失望し絶望し、あきらめて、政治にかかわるもろもろを見捨てようとしているように見える。だがそのあとに来るものを想像すると本当におっかないのである。

そこで妄想する。あの陸前高田の被災地の真ん中に大型の仮設テントをたて、そこで臨時国会をやらせたい。もちろん傍聴人は被災住民である。あの空気の中で、そのようなまなざしの中で、政治家たちはどのような言葉を吐くのだろうか。あるいは、復興予算にハイエナのようにたかりつく官僚たちに1週間でいいから、復興工事のボランテイアをさせてみたい。ダメカナア。


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