2012年10月29日月曜日

想像力・・・・ホロホロ旅行記(1)・・・・逸徳

今回の旅ほど印象深いものはなかった。何か魂の根底にふれるような瞬間があった。 体験をじっくりじっくりと反芻している。キーワードは想像力と祈りである。

深い森である。そこまでに至るのには、集落を離れて、森の中のけもの道のような細い道をよじのぼるようにしてあがってこないと、たどり着けない。人家はあたりにない。 静かに、森の匂いがつめたい風にのって流れている。一人の僧が、木々の間に散在している石に鑿をふるっている。刻むものは、衆生済度を願う五百体の仏達である。ああ、その刻音は天地に満ちるのであろう。きっと森のけものたちはそれを聞きにあつまってくるに違いない。しかし、どのけものも、僧をとりまいて何もせず、だまってその石を刻む音を聞いているのだ。 現地にたつと、木の間がくれに、僧をみつめる鹿のまなざしを感じるのだ。飢饉に倒れた数知れない、無数の民たちの成仏を祈って、僧は刻み、刻み、刻み続ける。・・・・ そうなのだ。この場所にたって自然に頭の中に浮かんできたキーワードは「祈り」である。(遠野市五百羅漢像において)

 祈りとは何なのだろう。人はなぜ祈るのか。かって、憲法9条を守る平和行進に参加したことがある。そのときに、一人の高校2年生の女の子と知り合いになった。行進中に交わした、彼女との平和をめぐる会話は本当に豊かなものであった。そして最後に、彼女が私に尋ねた。「このような平和行進の意味はなんでしょうか」と。 で、ぼくは答えた。「それは「祈り」ではないでしょうか。」と。そのとき、本当にそういう言葉が自然に頭に浮かんだのだ。で、その次の彼女の問いが衝撃的だったのだ。彼女はぼくに問うた。「では、祈りにはどういう意味がありますか。祈りという行為にはほんとうに力があるのでしょうか。祈りは本当に現在の苦しんでいるひとたちを救うのてしょうか。」・・・・彼女の真剣な問いに、ぼくは立ち往生して、混乱し、ごまかした。本当になさけない。だが今でもこの問いは頭の片隅にある。 祈りという行為が祈るひとを救うかもしれないのはわかる。 しかし、今この場で命を奪われていく、無数のか弱い民には何の意味があるのか。いまだに、このことはすっきりとわからない。

だが、である。そこで今回の旅でもう一つのキーワードに気が付いた。それは「希望」である。 この言葉は、安易にもてあそばれすっかり手垢にまみれてしまったが、こういう状況だからこそ、ぼくらはもう一度「希望」について、まじめに考えてみたい。

希望学というプロジェクトを主張している、東大の社会科学研究所・玄田有史教授は、東北大震災の綿密な現地調査にもとづいて次のような印象的なコメントを集めている。
 「夢は無意識のうちに持つものだけど、希望は、厳しい状況の中で、苦しみながら持つものなんですよ」
 「希望というのは、未来があるから使える言葉なんだよ」

そうか。現実から逃げないで、苦しみ格闘しているものこそが、未来を希求するプロセスの中で「希望」という言葉をつかうにふさわしい資格を得てくるのだ。であるならば、「希望」と「祈り」はほんとうに近い。 一枚の紙の裏表なのかもしれない。 

被災地の現実の中で「希望」について考えた。できることは何もないかもしれない。おそらく、ただ寄り添うことだけなのだろう。そして、こういう現実が、この同じ空の下にいまもあるということをしっかりと受け止め、忘れないように生きたい。そのことで、おいらももうすこしキチンとした地についた生き方ができそうな気がする。・・・・うーん、だめかな・・・・
                                                      続く

 



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