学生時代に河野君とは楽しく飲んだことも話したという記憶もない。お互い没交渉だったのだろう。今にして思うと残念な気持ちである。
彼は大阪の鐘紡化学?に就職した関係もあり、会う機会もなく時が過ぎた。二十数年ぶりにあったのが‘93年の大阪地方で初めて開催した片野屋温泉のホロホロ会である(アルバムで確認したところ)。その時も彼と何をお話ししたか記憶は定かではないが、彼が車で六甲を案内してくれ、駅まで送ってくれたことである。オヤ、と私の知らなかった彼の一面を垣間見た気がした。
それから何年後だったか、彼から突然電話が来て「東京に出てきたので藤沢で一杯やろう」と。寿司屋でタバコを煙らしながら大いに飲んだ。彼がこんなにお酒が好きで、そのうえ強いのに驚いた。その時に初めて彼が北見北斗高出身の道産子だということを知り、また、彼も私が滝川高校出身だと知って「お前も道産子なのか」と、お互い本州から来た「垢抜けた」人間だと勘違いしていたことを知り、大いに笑った。彼がドイツで鐘化の技術営業畑の仕事をしていたこと、その時に五本さんが訪ねて来てアチコチ案内をしたことを知り、また、驚いた次第。大学卒業後もお互いに手紙のやり取りをしていたのだろう・・・。
豪快なタフな生き方と同時に心温まる人間味を持った人間だったのだと、明日香でのホロホロ会をきめ細かく世話してもらった時にも同じことを痛切に感じた。私が大学時代に感じていた印象とは全く異なる人間だったことを知り、どうしてあの時代にもっと深い付き合いができなかったのかと不思議な気がする。
今春の上野の花見の会の返信メールで「前立腺云々で小便がと…」というメールをもらい、私の友達にも何人か同じ病状の人がいたので「大した病ではないと、少し養生して快気祝いに飲もう」とかいう類のメールを送った。ところが、「もっとたちの悪い神経系と複雑に入り組んだ、現代医学でも分からない厄介なものらしい」という返信メールをもらい心配はしていたが、彼のことだからそのうち元気な姿をと思っていた。
が、今年のホロホロ会(遠野経由岩手、福島の鎮魂の旅)から戻ってメールを開き、君の訃報を知りしばらくの間呆然としてしまった。70まで生きればマア―よしとすべきか、でも少し早すぎるのではと・・・。私も今年は脳こうそくなどして意外に早く君と彼の岸辺で桜を愛でながら飲める日がくるかも。いずれ、そのうち次々に訪れるであろうホロホロ会の仲間のために素敵な飲み屋を探しておいて欲しいものだ。 合掌
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