湖東の古寺詣で一番感動したのは石塔寺。小さな寺だった。夕方蝉時雨のなかを石段を登ってゆくと石塔があった。韓国の安東、慶州、扶余などでみた石塔とそっくり。渡来人たちが望郷の念にかられて建立したにちがいないと思った。
司馬遼太郎『韓国(からくに)紀行』のなかにもでてくるが、人びとは韓半島と日本列島をいったり来たりして、さらに北からも南からもやってきて混血を重ねて日本人の祖型がだんだんできあがった。
近代統一国家の形成でめんどうな領土概念がはじめてでてきた。たかだか百数十年かそこらのはなしだ。
吉村昭『間宮林蔵』を読んでいておやおやと思ったのは、李氏朝鮮は鬱陵島のことを竹島と呼んでいた。鬱陵島は良質の竹がたくさんとれたので竹島と呼んだのだ。だからいま争っているずっと東の竹島は李朝は全然関心がなかったというか漂流漁民以外知らなかったようだ。1905年に日本は竹島を島根県に編入した。その5年後に朝鮮全体を植民地にしてしまい李朝は滅亡する。韓国は竹島編入は植民地化の一環だと主張しているがやはり無理がある。(もっとも日本海という呼称は李氏朝鮮の地図では東海とか朝鮮海となっている)
清国は沿海州を「実効支配」していた。『間宮林蔵』によれば樺太の小数民族も清国人に獣皮を売って生計をたてていたのだから1689年のネルチンスク条約以降も樺太もずっと清の勢力圏にあったことになる。が、清国が衰えロシア帝国が沿海州、サハリン、カムチャッカ、千島列島にも進出してきた。明治8年、日露両帝国が平和的に樺太千島交換条約を結んだ。この原点にかえれば千島列島はすべて日本領土である。ちなみにダマンスキー島で武力衝突もした中露は近年外交で話し合っていまは領土問題は全くない。
尖閣に漂着した清国の漁船を手厚くもてなして明治政府が送還したら、清国から感謝状が届いていまも残っている。日清戦争のまえのはなしだ。しかし尖閣は中国領だと主張する以上、日中両国には領土問題があるのである。だから理をつくして話し合うしかない。それが外交というものだ。領土問題はないから話し合わないという民主党政権は自縄自縛におちいっている。
地球人口は爆発的に増えているが、陸も海も資源も有限だとわかってから、ややこしくなってきた。
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