科学的ということばが枕につくだけで、何となく信じたくなるのは、宗教のご託宣と変わらない。これを科学の新興宗教化といったひとがいる。この傾向はひどくて、白衣を着たどこそこ大学のなんとか教授というのがテレビにでてきただけで、純朴な一般市民はほーぅと感心してしまう。いわゆるハロー効果というやつだ。そこで、最近浜岡原発に近い当地で、何回か放射線の基礎科学の学習会の講師をやる機会があったので、こういうたとえ話をつくって話してみた。相手は元気なおばさん軍団である。諸兄のご意見はいかがか。
・・・・ ここにある名酒のはいっている酒びんがあったとする。酒はちょうどビンの半分だけはいっているとする。このビンに対して「おさけが半分はいっています」というのが科学である。誰もが認めるような客観的事実についての言説である。ところがそのビンの所有者の呑兵衛が「ああ、もう半分しかはいっていない」と嘆いたのに対して、その奥さんはだんなの健康を心配して「まだ半分もあるじゃないの」とのたまわったとする。この二人の言説が技術である。つまりこれらの言説には、その立場によって異なる事実に対する価値評価がはいってくる。つまり技術は価値中立的ではない。
原発に関して流れている多くのコメントは「技術者たち」のコメントであり、つまりは価値中立的ではない。そこでおいらは、おばさんたちにすすめている。つまり、そういう発言に対してまず問うべきだと。「あなたはだれか。どこにたっているのか」と。そうすると、相当な数の専門家と称する人たちの発言は、実は科学的でもなんでもなくて、単なるその人の社会的立ち位置にもとずいた価値判断による、ひとつの意見表明にすぎないのだということが見えてくる。しかも客観的にみて、この立ち位置というのもかっことしたものではなくて、経済がかかわっているな。簡単にいうと金である。だから、ここで重要なことは、市民ひとりひとりが自分で判断する覚悟と、それが可能なような学習をすることが大切であり、そうしないと自分で自分の命が守れませんよといっているのだが。
現状では、まず科学が科学的でない、つまり酒ビンにどれくらい酒がはいっているかがよく判明していない。しかも政府東電は情報をかくしたり操作しているように思われ、国民の信頼は地に落ちている。デマや、相当粗雑な議論が飛び交っているなあと思う。反原発でもうけているやつもいる。なにをかいわんやだ。
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