2012年3月5日月曜日

こういう話は大切だと思う・・・・逸徳

死ぬはなしなんて、縁起が悪いと、みんなから非難される。でもほんとにそうか。そういうことだから、老いの果てになってみんなおたおたする。ちゃんと元気なうちから、こういう話はしていたほうがいい。 で、もう24年も前のはなし。島田商業高校で演劇部の顧問をしていたころ、こんな体験をした。演劇をやっていると、ときにドキンとするくらいに印象深いセリフにであうことがある。それは、その言葉だけで独立しているのではなく、あるドラマの流れの中ででてくるから、なおのこと印象が深い。それを身体性をともなったセリフといういいかたをすることがある。で、そういうセリフにであったのだ。題は「雪をわたって…私たちはあの日森へいってみた・・・」という。作者は北村想。「寿歌」で有名である。もちろんお気づきとおもうが、この戯曲は宮澤賢治の「雪をわたって」という作品を下敷きにしている。でセリフだ。
 ・・・・・私たちはいずれ死にます。この生きているという物理現象は終わるのです。しかし、それは絶望でしょうか・・・・もし死ぬということが絶望なら、私たちは絶望にいたるために生まれ、生きていることになります。ごらんなさい。森は絶望していますか? いいえ、けしてそうはみえません。森は空気に包まれ、空気は光に包まれ、光は宇宙に包まれています。私たちもそうでしょう。私たちは森に包まれていました。私たちは、生まれてくるときも、生きているときも、そうして死んでいくときですら、きっとなにものかに包まれているのです。私たちを包んでいるものとは、この森であり、光であり、闇であり、そうして私たちそれぞれ自身なのです。私たちはけして絶望につつまれているのではないと、私は思います・・・・・

このセリフの力はすごかった。部員一の美人の子が演じたのだが、しかし、彼女の演技力以上にセリフの持つ力が、おおきな反響をよんだ。で、何年かしてこのセリフをおいらの年賀状につかってみたのだが、ご記憶の方はおられるかな。 老いや死について考えるとき、よくこのセリフを思いだすのである。


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