2012年3月5日月曜日

老いるということ・・・・逸徳

いや、つらい話だなあ。老いとどう向かい合うか。 今の時代において老いるとはどういうことか。 実は、三年ほど老人ホームにボランティアで通い、何人かの高齢者と知り合いになった。高齢者の話相手である。ピアカウンセリングという。告白すると、せっかく勉強した心理学をそのままにしているのはよくない、自分なりのフィールドをもというという、正直いってやや傲慢な思いもどこかにあった。 そして3年も通っていると、いろんな高齢者の話を聞くことができたのだが、そのうちに何人かの高齢者の話がどんどん深くなってきたのである。わかってきたのは、みんな孤独なのだ。その孤独の形態はひとによってみんなちがうのだが、とにかく残り少ない時間の中で、何とか老いという運命とおりあいをつけようとする。それは、時に揺れ動きゆきつもどりつする。
 話を聞くということは、ただ老いの過程によりそうことであり、それしかできない。だがそのうちに正直なはなし、怖くなってきたのである。高齢者の老いとのおりあいをつける戦いは、実は自分自身のテーマでもあるはずなのだ。だが、自分がそれをどうしていいのか、よくわからない。今日感じたことは、明日になるとまた迷い、違ってしまう。つまりどっしりと落ち着いてそこにいられない。 で、そんなところに、身内や親友が続けざまに亡くなった。がんや、治療不能の難病である。ますます、自信をなくした。 何をいっていいのか。どうしていいのかわからなくなった。老いるということを、自分の世界の中に位置づけることがうまくいかないのである。 というわけで、半年ほど前にボランテイアをやめた。 しりあったおばあちゃんたちとの間にいろんな思いはあったのだが、いってしまえば戦線逃亡である。恥ずかしい。

老いを自分の側から見るか。それとも客観的に外から、社会的問題としてみるのか。自分の側から見るのはそれこそ哲学的問題で、それがうまくいかなかった話をしたのだが、外から老いを見たらどうなるのか。孤独死などはこういう面からの話なのだろう。その面から、報告してみたい。
 で発想を変えた。ひとはいずれ死ぬ。65歳で平均余命20年。そこで、さしせまってからおたおたするのではなく、高齢者の入口で手を打とう。ということで、地域の仲間といっしょにやってきた地域福祉の研究グループが中心になり、ひとつのイベントを構想した。おいらの地域は人口1万人。この中に現在65歳のひとは約130人ほどいる。これを全部1か所に集めるイベントをやろうというのである。4/21に日時が決まり、会場も決まった。中身はどうするか。ひとつは記念講演会。そしてもうひとつが交流パーティである。ここでは、横の交流の機会をつくり、地域に65歳のネットワークをつくろうという発想である。地域の絆のなかにしっかりとつながった高齢者。ひとりぼっちはなくしたい。(この地域でも孤独死が出てしまった。)そしてそのマンパワーを地域づくりに組織していく。というイメージをもっているのだが、さてどうなるか。 ところがである。いろんな団体の協力を得て準備がすすんでいるのだが、スタートでつまずいた。ひとりひとりに招待状を出したいのだが、肝心の65歳がどこにいるのかわからないのである。なんか笑い話だ。 また結果を報告しよう。







 



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