今帰宅。酔眼朦朧とパソコンを開くと、あれ、どっかで見た記事が載っている。当欄で一時話題になった。で、検索をかけると、そうそう古いのはあのアクシデントで全部消えていて駄目だ。
私が投稿した原稿は全部バックアップしているので調べると出て来た。以下、転載する。
2008/10/11 「俘囚」
8世紀は大和政権が東北の服せざる人々(蝦夷)の征服戦争が繰り返された。(要するに稲作の集団が勝手にやって来て開墾をやるわけで、先住民にとっては迷惑千万なはなしだ。反乱ではなく防衛戦争なのだが。)
その都度、大和政権は数万の軍勢で攻め込んだ。坂上田村麻呂が797年に征夷大将軍となり、802年に胆沢城、803年に志波城を築いたあたりが蝦夷征伐のほぼ完成期にあたる。
802年には、手勢を連れて降伏してきた蝦夷のリーダー、 大墓公(たものきみ)阿弖利為(あてりい)と 盤具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)(アテリー、とかモレーとか言ったのだろう)の二名を京に連行している。
田村麻呂は二人を赦し、故郷へ帰すことを申し出るが、朝廷の態度はとんでもないものだった。二人とも河内国樟山にて死刑に処してしまった。この辺は、想像を掻き立てるものがある。胆沢から長途、京まで連行途上に、彼らには武人同士の友情が生まれたに違いない。しかし公家の官僚どもは生け捕った虎を野に放つことはない、処分してしまえということだろう。田村麻呂が必死に助命嘆願したか否かは知る由もないが。謀略を知っていたとは思いたくない。
しかしこういうだまし討ちは、その後、江戸時代のシャクシャインの反乱の際に繰り返された。和睦を申し出た松前藩は、歓迎の酒宴の場で酩酊したシャクシャインを殺してしまった。
平定された蝦夷の民はその地に置いておくと反乱を繰り返すということで、小集団にして、関東から九州まで色々な地方に移住させた。このあたりは、続日本紀、類従国史などに記述があるらしい。生活習慣、言葉が違うという記述をみるとやはりアイヌの民だったか。
彼の地での生活になじめずしばしば暴動を起こし鎮圧されたとある。何か「バビロンの捕囚」や、アメリカの開拓時代のインディアンを思わせる哀しい話だ。
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