2012年3月14日水曜日

俳句論議・・・猫跨ぎ

  俳句とはなにかという設問に、こうだと言えば、何を根拠にそう言い切るのか、こういう例外があると応じ、全くまとまらないのがこの世界。個々の信念ならまだいいが、個人の妄執、我執になってしまうことが多い。
  それはともかく、逸徳氏の「誰もいない」という評は、俳句のある一面を言っていて、実は我が意を得たように思う。実は俳句の究極は「気配」の描写ではないかと思っている。あるいはそこにこそ俳句の固有の存在価値があるのかとも。細部の表現、主義主張は所詮散文の世界に譲らねばならない。
  気配の世界は実は日本の文芸に伝統としてある。
定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
秋の夕暮れを詠うのに、花と紅葉をことさらに取り上げ、それを「なかりけり」と否定する。ついで裏の苫屋もぼんやり霞んで、つまり秋の夕暮れの気配のなかに包まれるという感覚。和歌は饒舌な世界でもあるが、裏側にこういう位相を隠し持っていた。
これを意識的に俳句に取り込んだのが芭蕉だと思う。
具象化のみを目標にするのなら、十七音は余りに短い。

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