2012年3月31日土曜日

ちと違うのではないかなあ・・・・逸徳

科学史上の理論の変化は、価値というものとは違うように思う。いわゆる弁証法的発展というやつで、そこには社会的立場も価値もかかわっていないのではないか。つまり次元の違う話で、ここでいう価値というのはもっと社会的なもの、人間の根本的生存にかかわるものだ。つまり、おいらの理解でいえば、科学史には価値という言葉はあまり関係ないのではないか。価値といいだしたら、科学は宗教になる。ルイセンコ学説を思い出す。価値中立ということについてのおいらのイメージはそういうことである。
 で、ある事実をどう評価するかというときにもそこでの評価基準に価値がかかわる。おいらのイメージていうと、たとえばマルクスかケインズかなんていうイメージである。 しかし今回の福島の場合は、全然違うと思う。たとえばヨウ素131により50ミリシーベルトの内部被曝をしたと思われる子どもをかかえた母親の前で、この事実に対しての評価は、それこそ右から左へとスペクトル状にひろがる。その中で、平然と原発再稼働の論理、それは決して科学的とはいいがたいが、そういうことを述べる学者に、母親がお前はどういう人間かと問うことは、当然だろうと思うし、マッカーシズムなんかといっしょにはならない。もしそれが問題であるのならば、おいらとしては、よろこんで過激な紅衛兵の子孫でありたい。ここで必要なのは現場に即した議論ではないだろうか。浜岡の直近にすむおいらには、その必要性がひしひしと伝わってくるのである。
 問題なのはにんげんの命、それも 未来の命なのだ。それを守るにはどうすればいいかいう発想に対する攻撃こそ、マッカーシズムの再現に見えるがいかがか。

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