死という経験は、一度体験したらそこからもどってこないのだから、生から見ると他人事である。生きている間に体験することは、それがどんなことであっても、生きている限りもういちどそれに出会う可能性がある、つまり再現可能性があるという意味において、生の範疇の問題であり、つまりは自分自身の問題になるといっていい。だが、死はそうではない。一度死ぬと二度死ぬことはない。したがって死の諸相について考えてもそれは生とは直接つながらない。つまり他人ごとなのだ。そういう感覚は昔からあった。だから死ぬのがこわいということがこどものころからよくわからなかったのである。だって死んだ人から、それほんとにこわかったのと聞くこともできないのだから、怖いかどうかわからないだろというキモチがおこった。だからむしろ死が怖いのではなく、生とわかれるのが怖いのであろう。
その中で思うこと。肉体と精神をいかに切り離していけるか。それが問題である。肉体の老化は物理現象だから怒っても泣いてもしょうがない。お師匠のいうくそまみれ状態というのは、そういう問題に対処できなくなった肉体の状態を、どう受け止めるかということで、その状態がその人の人間の尊厳にかかわるというわけではぜんぜんない。だって、寝たきり老人の排泄の問題と日夜格闘している介護士はそれこそ何万もいるわけだし、彼らはそれを単なるケアの一場面としてとらえており、そういう老人たちの人間的尊厳を軽視しているわけでもなんでもない。むしろそういう状態になってケアされなくてはならなくなった当人が、それが自分の人間的尊厳にかかわることだというとらえかたをすること、人間的尊厳とはそういうことについて自己処理できなくては維持できないのだというイメージをもってしまっていることが問題なのだろう。もっといえば、首から下が動かない障碍者なんて、人間的尊厳をどう考えたらいいのだろう。
おいらの体験だが、寝たきりで完全におむつ状態の老人と知り合ったことがある。脳は死ぬまで元気で、枕元で読んでいたのがギボンの「ローマ帝国衰亡史」だったのにびっくりしたことがある。だから体のことはとらえ方だと思って、なぐさめていくことにしている。まあ、おしめになってもいいや。
だから問題はそれを受け止め評価し、対処する心の問題、もっといえば脳の問題である。脳もまた壊れはじめる。それが怖い。だからどのように壊れていくか、その段階を自分なりにイメージしていると、脳の中でおこる変かが、老化に伴う必然的物理現象だというとらえ方をするようになり、したがってその変化を自分なりに受け入れて対応策をとることができるようになる。(はずだ。それが今の目標)
いけないのは過信することだと思う。たとえば昔はほとんど手帳を持たなかった。予定をおぼえている自信があった。これがあやしくなったので手帳を持った。 ところがその手帳をどこかに置き忘れる。そこでスケジュール変化を携帯にいれた。今のところ携帯は忘れにくい。さらに二つ以上の情報処理が同時にできなくなった。昔は三つぐらいの同時処理ができたのに。で、このとき頭の中に浮かぶイメージは、こわれかかってあちこち断線しているパソコンである。 しかし、ありがたいことに私が私であるという自己認識はしっかりしている。つまり中央演算装置はまだ機能している。ではここまで老化が進行したらどうなるか。いろいろな対策を考えているのだが、まあ当分大丈夫と思っている。
アルツハイマーのような認知症で、さまざまな周辺症状が起こるのは、当人の中でゆっくり進む人格崩壊について、残余の能力を総動員して、必死でつじつまをあわせて、人格崩壊(私が私でなくなる)恐怖とたたかっているからであるという。つまり必死で生きている人生の戦士なのだろうと思う。そして、興味深いのは、その個人の心理的、生活史的要因、他者との関係などによって激しい周辺症状を起こす「めんどうみられ方」が下手な人と、穏やかな「面倒みられ方がうまい」人がいるという。後者のほうが、症状が急激に進むことが多いらしいが。 で、おいらたちの誰かがそうなったらやさしくあつかってあげようね。
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