2012年3月13日火曜日

仁ちゃん句鑑賞・・・・逸徳

はじめにおことわり。 もしかして、おいらがお師匠の句の鑑賞で「だれかがいない」という言い方をしたのが、作品に対して批判的な意味でいったと受け取られたとしたら、そういう気は全然なかった。まあ、それは考えすぎか。
 むしろ想像力を刺激する句の仕掛けとして大変面白いと思ったので。演劇で不条理劇で有名なサミエルベケットに「ゴドーをまちながら」という作品がある。これ、話題の中心になるゴドーは一度も舞台に登場しない。そういう面白さを感じたわけ。

で、仁ちゃんに論理的すぎるといわれたが、うーんわからんわけではない。褌子氏の軽やかな感想、時に句評というより、評者の個性が出ていて、この人だいじょうぶかいなとひそかに思ったりするが、そういうのを拝見すると、ああこういう感じでもいいなあと思ったりする。だが、おいらはなかなか立ちすくんでそう自由になれない。むしろ、おいらのは演劇の脚本分析に近い。演劇では、脚本は、出来上がった舞台のまあ3から4割ぐらいしか書いていない。そこで、それを演じる側は、行間からのこりの6から7割を想像し、創造する。ここに個性が出るし、批評はこれに近いというイメージがある。だからやっぱり批評は創造でもあるんだなあ。作品そのものとは別のある何かになる。そして、そこまでいくともう作者の手から離れるのだろう。作家は弁明しないのだ。 だが一方で、こっちの想像したことがあたっているのかどうか、作者の世界とすり合わせたくなる気持ちもわいてくる。この辺はミステリーの謎解きみたいだ。したがって、作者の解説もものすごく面白いのである。こっちの感じたことが作者の世界とつながっていたかと思ったときは、やっぱりうれしい。ぜんぜんピントがずれた批評だったら、作者は「フン あんなレベルの批評家に おれの世界がわかってたまるか」と、ひそかにつぶやいていればいい。これも面白い。だってピントのずれた批評家は、それこそごまんといるからね。

さて、仁ちゃん句。 前衛的色彩を帯びてきたというお師匠の言葉にいたく同感。
・春の野や宇宙の涯の骨董品・・・・・・・ 直観的に感じたこと。宇宙の果てというのは、ここのことかなあ。川端康成だったか正確には忘れたが、雪が降ってきた光景を「宇宙の底が白くなった」という表現に出会ったことを思い出した。骨董品って何かなあ・・・ うーん作者ご自身のイメージだったら面白い。春の野にぽツンと骨董品がおかれて・・・・シュールだぜ
・宇宙まで塵棄てにゆく木の芽時・・・・・塵取りに行くとやったら、これはやぶさの話だなあ。木の芽時は、うちなる狂気が胎動するのです。
・春の精踏切板から飛び出して・・・・・・すなおな青春賛歌とも読める。女学校の体育の授業の光景・・・・こう連想するから、おじさんはいやだ。 ムフフ
・光より速く走りて四月かな・・・・・・・・・・一億年と一時間はどっちがながいんだ。たいして違わんなあという気分になる。
・針の穴するりと抜けて春の海・・・・・・・いいなあ、おいらもこれ特選。いろんな裏読みができそう。 人生にはこういう瞬間が確かにある。するりとぬけたい。
・スローバラッド奏でる土偶鳥曇・・・・・・うーんイメージがまとまらない。鳥曇がよくイメージできないからかな。
・洋食でも和食でもいいよ春の雲・・・・・そう、どうでもいいのだ。ほとんどのことは。この人生にはホントに大切なことは、実はあんまりない。どうでもいいことに真面目な顔をして、あくせくしてきたなあ。うん今夜は熱燗だな。・・・次選としたい
・物を云ふ瓦礫のありて彼岸かな・・・・・9月末に現地にはいって浜通りを北上した。そのときは、がれきが撤去されて何もない光景が続いていた。繁華街がすべてなくなって、海岸まで真っ平なのだ。そのなにもない空間に言葉がなかった。逆説的だが、がれきの山があったときの方が、心が地面に足をつけているという気がした。何もないということは困る。どう泣いていいかもわからなくなる。あそこではどんな彼岸が来たのだろうか。
・沈む球異国の空に囀りて・・・・・・・・・ダルビッシュだなということはすぐわかったよ。それをさえずると受けた面白さ。脱帽。
・白楊の春まだ浅き轍かな・・・・・・・・・北国の春を思う。もう少しだ。ことしの春は遅い。

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