2013年1月24日木曜日

パート2補足・・・・逸徳

朝の頭の体操になってきた。 まあいいや。「ものがたり」について補足。ものがたりはstoryではなくnarrativeというらしい。 つまり「語る(narration)もの」であるわけで、その人が語るものがその人のものがたりである。そういうわけで主観的真実のあつまりということになる。 ドンキホーテのものがたりは、ドンキホーテがかたり、したがって地平線の風車が巨人であるというのは、ドンキホーテにとっては主観的真実である。 でわれわれの日常会話もしばしばこの主観的真実をぶつけあう。 ちなみに政治というやつはこの主観的真実を客観的真実といいくるめることのようにみえる。 主観的真実はまさに主観的で、ものごとの一面しかあらわしていない。 そういうことを考えていると、どうしても無口になる。 声だかになにかをいいながら、どこかでその限界を自覚しているので、謙虚にならざるを得ない。これがおいらの紳士的であることのゆえんである。 
 ついでにいうと、不幸な人は不幸なものがたりを語る。だが、それもまた主観的真実なのだから、実はものがたりは修正可能なのである。 不幸な物語の中から見落としてきた幸せな事実を掘り起こして、物語を読み直すのである。いわゆる心理療法の基本的原理のひとつがこれであろう。さらにまた、この中から見えてくること。現実が言葉を生むというよりも言葉が現実をつくってしまうという面がある。 これはこわい。たとえばAはならずものだという言説を繰り返していると、Aを取り巻く現実はAにならずものになることを要求し、期待どおりAはならずものになるのである。 国際関係にも同じようなことはいえないか。

 いわゆる現実主義について。どうもこのことばはきらいだ。 理由その一。70年前に敗北をだきしめた日本人は、現実主義の向こうに、巨大な犠牲を下敷きにして、それを乗り越える希望をもとめさがそうとしたのではなかったか。 まだ70年しかたっていないのだ。そんなにあっさりとそういうものをすてていいのか。 
 理由その2  外交と軍事は表裏一体という現実主義。 これ非常にあやしい。 ちなみに軍事力は否定しない。 だが、外交に代表される、平和へのすじみちを探求する理想をもたない、現実主義にもとずいた軍事力は危険である。イメージとしては、国際平和維持活動に積極的に出ていこうとするスエーデンのような例を想像する。 ちなみに自衛隊法を改正しろとか、尖閣に自衛隊をおくれという単細胞のような議論は、自民党の中にはいっぱいあるようだ。 そういうやつらは、最前線に出て、イラクあたりで後ろから二三発撃たれる経験をしてくるといい。 だいたいその現実主義が、軍事をもてあそび、戦争になってしまうことはなかったのか。
 理由その3 どの程度の軍事力を持つかということは、まさに現実主義の問題の典型だろう。 だが、ではなぜ自衛隊に10億円の戦車が必要なのか。 その戦車が、戦車として機能するというときは、国内で陸上戦がたたかわれるときであり、そうなれば日本はおしまいである。 あれはおもちゃだ。つかわれないおもちゃである。 冷静な現実主義でもなんでもない。 アナクロニズムと軍事産業が結託したさるしばいである。 だが、ばかなやつがおもちゃをもつと必ず使ってみたくなる。それがこわい。
 要するに、現実主義ということばをいう政治家をみていると、なーんも考えないばかが抜き身の刀をふりまわしているようにみえてしょうがないのである。 ばかがはものをもつとこわいのだ。
ついでにいうと、軍事は科学だというやつがいる。 ではいったい、どういう計算で現在の自衛隊の規模が算出されたのか。そういう議論は聞いたことがない。基盤的防衛力整備計画??
あれガラガラポンで適当に財界のかおみながらつくったんでないの??  おいらとしては平和主義の軍事専門家が出てきて、国民にわかるようにたとえば自衛隊を半減してもやれる(あるいはやれない)ということを論証してほしいのだが、そういう人はいない。 そして、今日も老人ホームひとつぶんの金をまきちらし、最新型戦車がはしる。 その老人ホームの高齢者たちにその戦車がどういう意味があるかを説明してくれるような、礼儀正しい現実主義者にあってみたいものだ。

  今回のアルジェリアの事件について。痛ましく、犠牲者の冥福を祈りたいのは、おいらもまったく同感である。 でもさ、企業戦士ということばがあるでしょ。なんだか変だなあ。あれ戦士かね。つまり彼らは戦争していたのか。 そうではないだろうに。 なんとなく死者を傷つけるような気がしてしまう。 
 だがもうひとつ感じていること。 マスコミ、あるいは日本人の品のなさである。 どういうことか。かって、イラクで三人の日本人ボランティアがゲリラに誘拐されたことがあった。 その時のマスコミのバッシングはひどかった。ほんとに品がなかった。機会があって、三人のひとりである高遠さんという女性を静岡に何度か招いて、高校生に講演をしてもらったことがある。 彼女はイラクでアメリカの攻撃で傷ついた子供たちの支援活動を展開していたのである。 彼女はマスコミバッシングの中で精神を病み半年ちかく家にとじこもらねばならなかった。しかしイラク支援の彼女の行動はアメリカを支持した小泉政権からみれば、許されないことであったのだろう。 官房長官の冷たいコメントをおぼえている。彼女の行為とアルジェリアの技術者たちの行為、いずれも現地のひとたちのための行為であったことは同じであろうに。 悪い想像をする。 もし高遠さんが殺されていたら、どうなっただろうか。 あの時のマスコミの論調はおそらく自業自得ということばが主調になっただろう。 一方で、国家に哀悼の意を表される死、片方で国家にみすてられる死、そういうことになったのではないか。 あの時日本政府は、高遠さんたちに救援の飛行機代を請求した。欧米のマスコミ論調は、三人は日本のほこりだろうにということだったのに。

日本人が、どんどん下品になっている。 もう知らん。
 


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