「ものがたり」という言葉について。そりゃあ確かに沢山説明すれば、別に必要なことばではないだろう。ただ、おいらからすれば、そのたくさんの説明が一言で集約されているように思うので、好きなのである。というよりは、ひとは「言葉」で世界を理解するという側面がある。 ある言葉によって、この世界の一面を切り取り、照射することで、世界は今まで気が付かなかったような様相を示すのである。それはおそらくことばの本来的機能かもしれない。で、おいらとしてはこの言葉によってある一面がすっきりとわかる気がするのである。ま、どうでもいいか。好みの問題かな。
さて、お二方の議論の感想を書きかけたままであった。 まず、褌子氏。 共産党が、戦後70年の歴史の中でおそらくもっとも良心的実践者のよりどころであったことは、認めたい。だれが何といっても、それは認める。 ただしだ、ここで気になっていることがある。 たとえば最近の官邸前のデモのような市民運動の高まりのなかで、なんで「既成政党は排除しよう」というような市民からの声が出て来るのだろうか。革新の既成政党というひとくくりの言い方には問題があるのは百も承知だが、しかし、それは深刻な問題提起でもあると思うのである。党派性の問題か。あるいは過激派のような集団とくそもミソもいっしょにされた誤解か。 また、たとえば公明党の支持者層であるが、これ本当なら共産党の支持者層になるはずのものでなかったか。また、あるいは原水禁運動の分裂である。 これは日本の革新市民運動の大衆的ひろがりに対して致命的打撃だった。 これを党はどう評価総括しているのか。 そういうわけでなんだかよく分析しきれなくて、感想のレベルで申し訳ないのだが、褌子氏のいままでの発言の99.9%はまったく同感するのだが、それが広がらないのはなぜかと考え、小市民的プチブルのおいらはたちどまってしまうのである。
お師匠の中国論について。「アメリカ」についても同じようなことがいえるのだが、そもそも「中国」とよぱれる国家の中核となる実態はあるのだろうかという気がすることがある。みんなが中国を論じているのだが、対象が複雑怪奇あいまいにして巨大なので、どうも一面しかいっていないように思ってしまう。 だから、中国のある面をみて「これが中国」といわれると、とたんに別の面をも連想してしまい、それだけじゃ一面的と感じてしまうのである。 中国の最近の国際関係における行動については、お師匠の見方に同感する面もあるが、同時にたとえば、褌子氏が実践している中国残留孤児にかかわるドラマもたしかにもうひとつの中国だろうし、おいらの幼児体験のような日本人から感じる中国のイメージ(それは簡単にいえば、借りがあるといういうイメージで、だからこそおいらは娘に中国語を専攻させ、日中関係の進展に貢献させたいと思ったが、全然だめだった。親の心子知らずの典型)である。 中国はひとことでいえば泥沼のようなものなのかもしれない。要するになんでもその中にはあるのである。 したがってひとつの視点だけ強調するのはややついていけなくなる。 ああ、ここで次の用ができた。また書く。パート2おわり。
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