トルストイを愛読したレーニンが、ドストエフスキーには批判的だったわけを、革命と言語系の問題でたった七行でずばり解明したのは本邦初ではないか。たぶん。おそらく。猫跨ぎ氏は露文を専攻すべきであった。
ドストエフスキーの闇は深い。「カラマーゾフの兄弟」を読んでいて何ともうんざりした。英文で『罪と罰』を読むのももうやめにしたい。山田風太郎のほうが百倍も面白い。
BSテレビで映画『戦争と平和』を三晩かけてみた。1812年、フランス侵入軍にモスクワまで占領されながら最後に冬将軍の加勢をえて勝利するロシア。トルストイの祖国ロシアへの愛国心がほとばしりでている。
フランス革命をへたナポレオン軍とたたかうロシア軍の将校はみな貴族出身。「ロシアは敗戦続きで、兵を補充するために農民まで狩り出している」というくだりがあった。ロシアの農奴解放は1861年。農奴解放をへたあとの日露戦争でも帝政末期のロシア軍と明治維新をへた国民国家の日本軍とはちがう軍隊だったのだ。
・・・などと思って、志賀直哉『暗夜行路』を読んでいたが、主人公時任健作も友人達も華族階級につらなる若者たちなんだと気づいた。女中、下男がいて、年中芸者遊びをしていて生活のにおいがしない。志賀直哉の祖父も相馬藩の家令だったせいか、父は明治のころにドイツ官費留学、直哉は学習院をでている。
『暗夜行路』にもでてくる事実なのだが、直哉が女中(小説の設定では祖父の妾。自分は祖父の子という設定だがこれは事実ではない)との結婚を決意したら一家をあげて大騒ぎになって諦めさせられている。父が足尾銅山鉱毒事件をおこした古河市兵衛に肩入れしたことから、父との不和を決定的にするなど直哉はだんだん自らの階級のもっている臭気を憎悪するようになって社会変革に関心をふかめていう。
ここらへんは、津軽の大地主の家に生まれた出自を軽蔑し嫌悪する太宰治に似ているな。いっぽう漱石は東京の没落名主の家に生まれたが、根っからの江戸っ子。帝大から英国留学しても友人子規と交流し、諧謔と庶民の文芸俳句を楽しんだ。漱石は高等遊民と自らを卑下しつつも、華族と金持ち階級を心底嫌って軽蔑している。(歌会始で皇族も俳句をやる時代がくるといいね)
そんな漱石を直哉はうらやましく思い、心から尊敬していた。さらに後年、直哉をしたう小林多喜二を自宅に招いたり、激励の手紙を何度も書いている。小林多喜二が昭和8年2月20日に29才で築地署で虐殺された事を知った直哉は「あの青年の思い、ものになるべし」と日記に書いた。(『暗夜行路』のはなしの筋は私には退屈きわまる“私小説”なのだが、こんな観点から読んでいると多少面白い。ついでにいうと太宰治は戦後日本共産党に入党もしている)
日本は敗戦による大日本帝国崩壊まで、皇族・貴族・士族がいて「平民」がいて、被差別部落民がいた。大地主も資本家も高額納税者となると公侯伯子男の末席につらなり爵位をえた彼らの子弟は徴兵からも逃れることができた。
われわれが生まれたころ、つい一昨日の日本はそんな社会だったのだ。
多喜二忌やまだある築地警察署
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