2012年2月19日日曜日

そこでおいらも一言・・・・ 逸徳

天皇制の問題か。考えてみると10代のころからずうっとこの問題とは、つきあわされてきたような気がする。 いま感じていること。 哲学?的なエリアの問題と政治的エリアの問題の混同がおこっているのではないかなあ。 政治とは、せんじつめれば集団の意思決定の技術にすぎないといっていい側面がある。それは、となり近所のごみ掃除の分担から始まって、どのような国家の体系をとるかという問題の一つである天皇制の問題にいたる。だが、せんじつめればこれもひとつの技術的な問題に過ぎない。要は現在の日本人が、天皇制というシステムを採用しているに過ぎないのであって、そこに現状を超越した論理的正当性があるというわけではない。 で、おいらもそれを現在の日本人の一人として認めている。だが、それでもなお何とも気持ちの悪い、落ち着きのなさを感じてしまうのだ。それをかりに哲学的?エリアの問題だとしよう。
 ついさっきアンナハーレントの次のことばにぶつかった。(だからここに書いてみたいと思ったのかもしれない)かの女はいう。「わたしたち一人ひとりは、世界でたった一つの「始まり」である。だからそこに、ひとの尊厳(自由の根拠)が示されている 」  ・・・・ だれもが、独自の存在であるという彼女の言葉のさきに、おいらは、誠実でこころ優しいあの老夫婦の存在を思いうかべてしまう。今、天皇として生きることの不幸。それを想像することと、政治的な一種の劇場としての天皇制を是認していることは別に矛盾はしない。 そして、だれもが独自の存在であり、そこにひとの尊厳の根拠があるという言葉のさきに、たとえば新自由主義の犠牲となって国保も払えない一組の母子家庭の悲惨さを想像し、それをもたらしたものに対する、人間的な怒りをもつのもまた当然であるだろう。そしてその怒りを、政治的次元に昇華しようとするとき、イデオロギーの問題が出てくるのだろう。しかしながら、おいらには天皇も、この母子も同じような不幸に向かい合っているような気がする。

ともあれこういう居心地の悪さゆえに、たとえば天皇が勲章くれるといったって、おいらももらう気はない(まあ余計な心配だが。冗談) 

で、もしわれわれの怒りのエネルギーを配分するのが、対象の不正義の度合いによるとしたら、お師匠。ちと、怒りのエネルギーの配分が違うような気がする。確かに、20世紀の革命運動の流れの中で、革新の側には「啓蒙すべき無知蒙昧な人民大衆」という意識があったことは間違いない。原水禁運動の顛末なんかみているとそれを感じる。 だがね、それよりも桁違いの大きさで、民衆を駒としてとりあつかい、さんざんやりたいようにやってきた連中に、そのやってすることに比例した量で、人間的怒りをぶつけるべきだと思うがどうか。でないと不公平だ。政治もまたその視点からはじまってほしいのだ。だから、250兆をこえる内部留保を認め、それも資本主義だから・・・というやつなんかからみたら、革新の傲慢さなんか、かわいいものではないか。(余談 しかしなんでこんなに日本の金持ちは品がなくなったんだろうなあ) 

まあ、もっともどうでもいいか。残りすくない人生だ。みんな仲良くやるべえ。今夜の酒の肴はなににしようかな。

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