ちと面白いと思うので。 おいらの考えでは、宗教という言葉で指示されるものには明らかに二種類あるという気がしているのである。 ひとつは「」つきのいわゆる宗教と称しているもので、これはおいらの感覚からいうとホントは宗教とはよびたくない。ある種の妄想、あるいは盲信にもとづいた社会儀式をつかさどる装置に過ぎない。いわゆる、葬式宗教は典型であろう。はらう金額で、戒名の位がちがうというのはとても宗教の名に値しない。今に自然消滅するだろうな。もっともそれで安心する人がいるというかもしれないが、それは一種の軽蔑すべきペテンではないか。あるいは宗教がひとつの社会的権威として、人間の精神状況に影響を与え、あるいは支配するのも宗教とはいいたくない。たとえばローマカトリックの法王を頂点としたピラミッド構造は一種の精神的な社会的権力に過ぎない。あるいは精神的暴力装置といってもいいか。宗教にあのような壮大な伽藍、神殿はどうして必要なのか。そこがわからん。だいたい、カソリックは異教徒を人とみとめないで、異教徒の首でサッカーやるような残虐さを発揮している。だから中東の騒乱の背景のひとつである、イスラムとキリスト教徒の対立は、あれ妄想のけんかに過ぎないのだ。それをえんえんとやっていたのであって、この辺のことは手塚治虫の「アドルフにつぐ」で見事に描かれている。 人間Aが神と宗教の名において人間Bの存在を否定した瞬間それはもはや神でも宗教でもない。
たしかハイゼンベルグ(ただしあのハイゼンベルグでなく、その弟らしいが)が、宗教の共通の特徴として四つのことをあげている。宗教とは何か。ひとつは経典があること。二番目に神殿、三番目に教団の存在、最後に神官がいることである。そしてそれが発達して一種の社会的な装置にまで進化してしまったのが今の宗教ではないか。でもこれ本当に宗教だろうか。
本来の宗教とおいらが感じているのは、人間のもつ根源的な存在の不安(としか言いようがないのだが)に対して、さまざまな手段でその不安にこたえる道を探ろうとする営みの総体である。神の存在を考えるのは、そのような試みのひとつにすぎない。神という言葉を考えなくても宗教は成立しえる。原始仏教なんかにはそういう面があったと思うし、禅宗なんて、所与のものとしての神は考えていないのではないか。 したがって、アインシュタインが自らを「宗教的無神論者」と定義したのはまことによくわかるのである。そして、こういう真摯な営みとしての宗教は、絶滅危惧種だという気がするのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿